第六章73
『『ナツキ・スバル』』
あるはずのない一冊を開く。そこから先は、自分の足跡を辿る旅になる。
📕 菜月・昴
――漢字で、書かれている
スバル以外には通用しない、しかしスバルにだけ効果を持つ猛毒――。
『菜月・昴』の『死者の書』は、そんな強烈な意味を持ってスバルを貫いていた。
「なん、で……」
それ以前に、決定的な問題がある。
この『菜月・昴』の書のタイトルは、漢字で書かれているのだ。
スバル以外の、もう一つの世界の文字を知らない人間が見ても、きっとこのタイトルは象形文字か何かのようにしか見えないのだ。
🛤️ 既定路線
――誰かの、既定路線
この膨大な蔵書量の中から狙いの本を見つけるのは至難の業だ。
たぶん、神の見えざる手が働かない限り、不可能な類の。
「――誰かの、既定路線」
厳然たる事実として、スバルはここにこうして生きている。
そのスバルの『死者の書』がここにあるとしたら――。
😰 怯え
――ただ、怯えている
どうして思考が逸れていったのか、その原因が自分の臆病にあるとすぐに気付けたからだ。
――ただ、『死者の書』に怯えている。
だが、それは同時に、自分以外の『ナツキ・スバル』が確かにいて、この異世界で自分なりの道を歩んでいたことも意味している。
その足跡をスバルが上から踏み荒らし、塗り潰していることも。
「――結局、どうしたいんだよ、弱虫野郎」
息を強く吐いて、『死者の書』を、開いた。
🩸 一冊目
――腹が、裂けている
顔面が硬い感触を味わい、腹部が灼熱の感覚で脳を焼く。
――ああ、これ全部、俺の血かよ。
それでもまだ心が死んでいないのは、この死へと向かっていく命に、最後にやらなくてはならない使命が残されているからだ。
危ない。危険だ。くるな。逃げろ。脇目も振らず、まっしぐらに逃げろ。
それなのに――声が出ない。
🤝 重なる手
――入ってきてしまう
「――バル?」
銀鈴の声音が、入ってきてはならない空間へ、足を踏み入れてしまう。
命に代えてもやらなくてはならなかったのに、自分の腹が破けていたせいで。
その、倒れた誰かの手が、倒れているこちらの手と重なったのは、皮肉すぎる運命の悪戯だ。
どうにもならないとわかっているくせに、それでも誓おうとする愚かしさ。
「俺が、必ず――」
――お前を、救ってみせる。
🫃 傷がない
――腹に、傷がない
「な、い……ない、ない、傷が、ない。腹、斬られて、ない……っ」
「――腹を斬られて、死んだ、記憶」
「サテラ……」
あの記憶の中、見知った銀髪の少女は自分の名前を偽り、スバルと接していた。
「……に、しても、なんて無様な死に方しやがる」
「――これは、『菜月・昴』の『死者の書』だ」
🎨 塗り潰される
――自分との、戦いになる
メィリィの書を読んだ直後の混乱は、それでも自分と彼女とを差別化する手掛かりがあった。
しかし、今回はそうはいかない。他ならぬ、自分自身が相手なのだ。
自分と重なるということは、自分を塗り潰す行いに近い。
『ナツキ・スバル』という黒い絵の具を洗った水に、まっさらな絵筆を付けるように染まっていく。
「――エミリア。エミリア、エミリア、エミリア、エミリア、エミリア」
教えられた偽名を信じ込んだまま、最期の最後まで道化の役目を全うした。
だから、そこが今のスバルと、『ナツキ・スバル』との違いだ。
🔑 決定的な何か
――決定的な、鍵があるはずだ
この『ナツキ・スバル』も、『死に戻り』の力を利用していたはずだ。
あるいはそれは『死に戻り』ではなく、もっと違った形で発現した力だったのかもしれない。
エミリアが、ベアトリスが、ラムが、エキドナが、ユリウスが、メィリィが、シャウラが、その活躍を期待する『ナツキ・スバル』ならば、そのぐらいのことは。
「この先に、それがあるはずだ」
「――二冊目」
🔪 刻まれる
――何度も、刻まれる
――『ナツキ・スバル』の歩みは、無様で無計画で、救いようがなかった。
「てんでダメ。見たまま素人で動きは雑。加護もなければ技術もなく、せめて知恵が絞れるかと思えばそれもなし。いったい、どうして挑むのかしら」
そうして傷付けられる自分の周囲には、血塗れの老人と金髪の少女が倒れていて。
そのどちらも救えなかった。動くこともできなかった。
「ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、悶えて」
🗡️ 背中
――呑気な会話が、頭上でされる
「おい、刺しちまったのか」
「仕方ねえだろ。表に逃げられてみろ。面倒どころの話じゃねえ」
「あーあ、こりゃダメだ。腹の中身が傷付いてっから死ぬな」
痛みから逃げ出す術、自分を守るための方法の取得はさすがに達者で心底呆れる。
まさしく無駄死に、犬死に、救えない。
似合いの最期だ。どうして、最初から最後まで、一分一秒を惜しまず、全身全霊を注ぎ込んで、生きられないのか。
😴 眠るように
――死んだことに、気付けない
眠っている間にもたらされる落命は、そのあっさりとした最期と裏腹に、冷たい毒を血管に流し込むみたいな残酷さを伴っていた。
『死』を恐れる人間の中には、眠るように死にたいと望むものが少なからずいるだろう。
その経験をしたスバルに言わせてもらえば、そんな『死』は望むべきではない。
『死』には、『死』の意味があるのだ。
人生の終焉には、終幕には、それとわかる終わりが付属していなければならない。
🤝 出会い
――裏切りの先で、切望する
次から次へと、命を狙われ、奪われ、砕かれ、ついには裏切られる。
何故、自分を殺した青髪の少女を、救わなくてはならない。
何故、彼女の言葉に力をもらい、進めるような気になったのか。
エミリアと出会い、パックと出会い、フェルトと出会い、ロム爺と出会い、ラインハルトと出会い、エルザと出会い、ベアトリスと出会い、ラムと出会い、レムと出会い、ロズワールと出会い、ペトラと出会い、アーラム村の人々と出会い――。
――どうしてもと、押し寄せる濁流に否を突き付ける。
8️⃣ 八冊
――過去に、囚われるな
「――これで、八冊」
一冊の『菜月・昴』を読み終えなくては、次の『菜月・昴』の本が見つからない仕組み――周回も、順序通りに進んでいる。
王選の開始が宣言されたあと、城でエミリアと仲違いし、結局は彼女の心を傷付けるだけ傷付けて、謝罪も反省もないまま、混乱の内で死んだ『ナツキ・スバル』。
どうしてわかってもらえないのか、と思う自分がいる。
一方で、どうしてそれでわかってもらえないと嘆くのだ、と思う自分もいる。
「過去に、囚われるな……」
そうでなきゃ、心が壊れる。
9️⃣ 九冊目
――万能の鍵が、あるはずだ
あるのは図抜けた諦めの悪さと、周りの人間に恵まれた幸運だけ。
だが、それだけではない。そんな、形のない『何か』ではない。
もっと明白で、明快で、一目でこれとわかり、それがあるからできるのだと、そう誰もが納得のゆく、万能の鍵がある。
「――九冊、目」
願わくば、『ナツキ・スバル』。早く、お前になってくれ。
――俺が、お前の足跡に、お前の傷に、『死』に、心が耐え切れなくなる前に。
🏠 父と母
――許さないで、ほしかった
父と母と、二人と言葉を交わし、二人に謝罪する『ナツキ・スバル』がいた。
異世界へ飛ばされ、この場所で生きていくために、二人に別れを告げる『ナツキ・スバル』がいた。
「父さん……お母さん……っ」
辛いのは、苦しいのは、『ナツキ・スバル』の気持ちが痛いぐらいにわかったことと、それを両親が許してくれることを、スバルもわかってしまったこと。
許さないでくれ。呪ってくれ。親不孝者だと、罵ってほしかった。
スバルの父は、賢一は。スバルの母は、菜穂子は。――最高の両親だった。
「違う……違う、違う違う! そうじゃない! こういうことじゃ、ない!」
🗝️ 何か
――『何か』が、あるはずなんだ
「教えてくれ、『ナツキ・スバル』! ――お前がどうして特別なのか! お前だけがどうして、特別でいられるのか! 『何か』が、あるんだろう!?」
「弱くて、情けなくて、ちっぽけでクソの役にも立たない俺を変えてくれ! もう、うんざりなんだよ! みんなが、苦しむところを見るのは、もう嫌なんだよ!」
――でなきゃ、認めるしか、なくなってしまう。
「お前が、俺と同じで、弱くてちっぽけで、何の力もない奴だって……」
「頼むよ、『ナツキ・スバル』。お願いだ。頼むから、やめてくれ……」
――超人であってくれた方が、ずっとよかった。
――だから、自分にはできないことができたのだと、納得させてほしかった。
🪞 お前は俺
――白い世界に、立っている
掴んだ本を、開く。
だって、痛みや苦しみよりも、最後の希望が絶たれる方がずっと辛いから。
「わかるだろ、『ナツキ・スバル』……」
「――ああ、わかるよ」
気付けば、スバルは書庫ではなく、見知った、ここではない場所へと移っていて。
「わかるよ、ナツキ・スバル」
「だって、お前は俺なんだから、な」
白い世界に立ち尽くす、見知った三白眼が、ナツキ・スバルを待っていた。
第六章73『『ナツキ・スバル』』終了。
スバル