第六章53
『――声が、した』
四層の通路で、スバルは自分に何もできないことを、二度、証明させられる。
🛡️ 不完全
ベアトリスが、前に出る
縦ロールの髪をなびかせ、破壊へ真っ直ぐ飛び込むのはベアトリスだ。
勇気――否、蛮勇だ。
彼女の背丈ではスバルの体の胸から上は全く射線を遮ることができない。
つまりは、無駄死ににしかならないような、衝動的な行動でしかなかった。
「――『不完全E・M・T』なのよ!!」
スバルの体から一気に何か、目には見えないエネルギー的なものがごっそりと抜ける。
ベアトリスのかざした掌の前で、まるで光の壁が展開されたかのように尾針の一撃が防がれた。
🌧️ 雨のように
――尾針が、雨のように降る
放たれる尾針は一発では済まず、次から次へと雨の如く撃ち込まれる。
だが、その全てをベアトリスという幼い少女の姿をした盾が防ぎ切り、背後に被害を通さない。
一瞬だけ見えた巨大なサソリ、その破壊力は人体など容易く塵へと変える迫撃砲も同然だ。
それを、こんなにも小さな背中の少女に庇われ、スバルは命を拾っている。
直前、神に救いを求めた心地も醒めないままに、いったい自分はこの世のものとは思えぬ如何なる地獄へ放り込まれているのか。
🤚 左手
――床が、崩れる
ベアトリスに防げるのは、尾針を浴びることへの直接的な被害のみ。
その尾針の破壊がもたらす、二次的な被害については防ぎようがなかった。
尾針の攻撃に砕かれ、通路は半ば崩壊した。
そのまま、どことも知れぬ宙へ投げ出されてしまえば、転落死は免れない。
そのエキドナの手を、とっさに踏み出したスバルが掴んで、転落死を防ぐ。
🧣 エキドナ
「ナツキくん……!?」
ベアトリスに握られた手が右手で、エキドナを捕まえたのが左手だ。
レイドの強引な施術で肩は入っているが、痛みは根深く、酷使すれば再び肩が外れかねない。
💪 記憶にない体
――知らない体が、動く
🧣 エキドナ
「……君を、測りかねるようなことをしないでくれ」
「知、るか……! とっさなんだよ……!」
🧣 エキドナ
「その答えは……ナツキくんにも思えるけど、ね!」
最後まで、何とか彼女の行動を支え切り、スバルは自分の腕に目を落とした。
「俺の、記憶の限界より、マシに動く……のか?」
手にできた見覚えのないタコや無数の擦り傷。
ほんのわずかにだけたくましくなったような体格が、かろうじてエキドナを転落死させなかった。
✂️ 鋏
――今度は、鋏がくる
千種類を超えるサソリの中で毒を持つ種類はほんの数十種類しかいない。
となれば、毒針以外で狩りをするサソリの武器は何か。
――当然、その鋏が武器となる。
かろうじて原型を保っていた塔の壁や床が、まるで包丁で豆腐でも切るように刻まれていく。
「――ムラク」
ベアトリスを中心に、重力の干渉を逃れたような奇妙な感覚。
ベアトリスがスバルとエキドナの服の腰を掴んで、大きくサソリの猛攻から距離を取った。
☄️ 熱線
🧣五本の指から、光が出る
🧣 エキドナ
「エル・ジワルド――!!」
五指、それぞれの指から放たれる白い熱線、五条の光が巨人の爪のように通路を薙ぎ払う。
天井に張り付いていたサソリの顔面を、右の鋏を、甲羅を焼き焦がす。
🧣 エキドナ
「ジワルド! ジワルド! ジワルドぉ!」
「待て! 落ち着け、エキドナ! 逃げた! あいつは逃げた! 逃げたから!」
🧣 エキドナ
「はぁ、はぁ、はぁ……や、やった……?」
「……やれては、ねぇ。たぶん逃げられた」
🔺 上・中・下
――全部の階で、起きている
「――魔獣、なのよ。いきなり、この四層に現れた無粋な輩かしら。下層の揺れと、四層の魔獣。それに、上層の異変」
「上、下、中……全部で問題が起きてたってのかよ?」
確かに、下層では今もユリウスが戦っており、四層では今のサソリの存在が明らかとなった。
上層の異変も、レイドが降りてきたことから納得がいく。
🧣 エキドナ
「……その問題の一つが君なんだが、自覚がないようだね」
❓ なんなんだ
🧣君は、いったい、なんなんだ
🧣 エキドナ
「君は……君は、いったい、なんなんだ? 何がしたくて、どこに拠って立つ?」
「細かい、ことはわからねぇよ。言っただろ。何が起きて、どうなってるのか、何もわからないのは俺も同じだ。だって俺は……」
「――記憶喪失」
知っていて、ベアトリスの態度はああで。
エキドナも、言葉を尽くそうと思案していて。
🧣 エキドナ
「檻からはどうやって?」
「……気付いたら、肩が外れて檻の外に倒れてた」
なるようになれと、鼻水を垂らして神に懇願までした身なのだから、今さら、取り繕うべき見栄も体裁もありはしない。
🫱 とっさに
――どうして、助けたのか
🧣 エキドナ
「……どうして、今、ボクを助けたんだい?」
🧣 エキドナ
「君が手を差し伸べなければ、間違いなくボクは死んでいた。アナの体ごと、ひどく無念の死を遂げただろうね」
彼女があえてそうしたのは、情で判断を誤らないための苦肉の策。
「……とっさだったんだ、わからねぇよ」
「なんにでも理由があるわけじゃないだろ? いきなりだった。全部、いきなりだった。だから俺は……」
🧣 エキドナ
「――。それが、君という人間の本質なのかもしれないな」
🤞 忘れない
🟣ベティーが、覚えている
「ベティーを、連れ出してくれたことも覚えてないかしら」
「……ご、めん。お前が、何を言ってるのか、俺には」
「――いいのよ」
「スバルが忘れたとしても、ベティーの中に残ってる。スバルが刻んでくれたものが、ベティーの中で色褪せることはないかしら。だから、今はいいのよ」
「たとえスバルが忘れても、ベティーが忘れない。ずっと覚えてる。そして、スバルにも思い出させてみせるかしら。そのためにできることは、何でもやってのけるのよ」
それはあまりにも、この場に一人で立つナツキ・スバルには眩しすぎる答えだった。
手を握るだけで、支えになってくれる。
🔍 綺麗な断面
――断面が、綺麗すぎる
崩落した先、噴煙が晴れると、そこには思わずスバルが呻いた原因が転がっている。
――それは、ほとんど根元から落ちたと思われる、あの魔獣の尻尾だった。
🧣 エキドナ
「なるほど、反撃がなかったわけだ。攻撃手段を削げたのは、ささやかな朗報かな」
エキドナの熱線に焼き切られたなら、傷には焼けた跡が残るはず。
しかし、サソリの落ちた尻尾にはその形跡がなく、やけに綺麗な断面を――。
「――べあ、」
視界の端で床に落ちた尻尾が、びくりと震えた。
――直後、光が弾けた。
🦎 自切
――尻尾を、切り捨てる仕組み
――自切、という仕組みがある。
外敵から逃れるために体の一部を自ら切り捨てる行動のことだ。
トカゲが尻尾を自切した場合、切り離された方の尻尾はその場をしばらく動き回り、相手の注意を引きつけて本体を逃がす役割を果たす。
――切り離した尻尾に獲物が近付くと、その瞬間に炸裂して被害を与える『地雷』のような役割、それを自切部位に持たせることも。
🩸 引きずる
――足を、引きずって逃げる
左足に大きな裂傷を負って、ズタズタの傷から血を流している状況だ。
スバルが引きずっているのは、自分の体だけではない。
🧣 エキドナ
「……もう、いい。置いて、いくんだ」
(#゚д゚)
「――クソ、クソ、クソ、クソ!」
油断した。油断していた。完全に、頭がぬるま湯に浸かっていた。
苦難とは試練とは難局とは、神が成長する機会としてもたらすものではないのか。
苦難がそれしかもたらさないのだとしたら、人間はいったい、何のために苦しむのだ。
🟣 いない
――抱き寄せるのが、遅かった
🧣 エキドナ
「ナツキ、くん……もう、十分、だよ……」
「十分じゃねぇ! 何一つ、十分じゃねぇよ!」
🧣 エキドナ
「……ボクの、ことより、ベアトリス、だろう?」
――だが、ベアトリスはいない。いなかった。いなくなってしまった。
スバルが彼女を抱き寄せた瞬間、彼女はスバルの胴体を、急所を庇おうとした。
そして集中的に光の猛威を浴びることとなり――。
🧣 エキドナ
「……そう、か。あの子は、本当に、損な子だ」
血を流し、痛みに呻くスバルは、溶けるように消える少女と最後の言葉を交わすこともできなかった。
安堵したような、スバルを慈しむような、瞳。
🕯️ 恩返し
🧣この痛みは、恩返しだ
こんなことをしても無駄だと、あれほど、アナスタシアに体を返すのだと息巻いていた彼女が。
それも当然のことだった。――彼女の体は、両足が付け根から吹き飛んでいる。
🧣 エキドナ
「痛い……ああ、痛い、な。本当に、人の体は、痛い……」
「わ、悪い……ごめん、ごめん……違っ、そんなじゃなくて、俺は……」
🧣 エキドナ
「律儀に、謝るなよ、ナツキくん。それに……もう、アナに合わせる顔が一つもないボクだけど……この痛みは、唯一の、アナへの恩返しだ」
🧣 エキドナ
「今、アナに体を返せば……アナは、この世の終わりかと思うほどの痛みと、死の恐怖を味わうことに、なる。……こんなの、地獄だよ。味わうのは、ボクでいい」
🧣 エキドナ
「アナのために体も返せず、ユリウスを手助けすることもできない。……ボクは、こうして地獄に落ちるのがお似合いだ」
🪨 介錯
――石が、振り下ろせない
🧣 エキドナ
「楽にしよう、なんて……思わないで、くれよ? ボクは、うん、これでいい……」
掌に握れるぐらいの、せいぜい拳大といったところのサイズ。
だが、ほとんど瀕死の少女の命を奪うくらいなら、こんな凶器でも十分なはずだった。
『石で人の頭を割るなんて、わたしもやったことないわあ』
だが、この行動は『死者の書』を読むためのものではない。
これは、介錯だ。死に瀕した誰かを、少しでも楽に送るための、介錯。
振り上げ、振り下ろす。極々簡単な動作。それが、今のスバルにはできない。
掠れた息が漏れ、音を立てて、瓦礫が通路の床に落ちた。
🙇 悪かったね
🧣疑って、悪かったね
🧣 エキドナ
「……ナツキくん」
「俺、は……」
🧣 エキドナ
「介錯の、ために、君は……石も、握れないんだ……」
しかし、そうして身を竦めるスバルに、エキドナは場違いに、唇を緩めると、
🧣 エキドナ
「……疑って、悪かったね」
――そしてその真意を確かめる間もなく、彼女は死んだ。
自分のみっともなさに跪くスバルに、エキドナは謝って死んだ。
🖤 絶望
――絶望が、心を侵食する
動けない。動く資格がない。動いたところで、碌なことにならない。
ナツキ・スバルは自らの無能を――否、それ以上の疫病神であることを、証明したのだ。
消えたい。消えてなくなってしまいたい。
何故、存在するだけで、お前は他者の心を煩わせるのだ。
ナツキ・スバル、何故死なない。
――愛してる。
うるさい。消えろ。消してくれ。
――愛してる、愛してる、愛してる。
黙れ。話しかけてくるな。消えてなくなる邪魔をするな。消えたい、消えたいんだ。
とめどなく垂れ流される虚ろな愛の告白が、蹲る人の形をしたゴミの処分に迫ってくる。
あの中に呑まれれば、消えてなくなれるだろうか。
🔔 銀鈴
――そこまでよ
ナツキ・スバルは、その全てを塗り潰すような、絶望の中へ――。
「――そこまでよ」
――声が、した。
この世の終わりを否定する、銀鈴を思わせる、声が、した。
第六章53『――声が、した』終了。
スバル