第六章39
『残骸』
痛みだけを覚えて目を覚ます。逃げて、逃げて、逃げた先にいたのは、あの男だった。
🔥 痛み
――痛みだけが、あった
断続的に、延々と、壮絶な灼熱が存在を塗り潰していく。
頭蓋を、手足を、胴体を、内臓を、血肉を。
痛み、痛み、痛み、痛み、痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み痛み。
痛みだけがあった。世界は痛みで満たされていた。
不安も、混乱も、緊張も、悲嘆も、憤怒も、失望も、痛みの前では全てが無価値だ。
思考にも、行動にも、思案にも、意見にも、希望にも、記憶にも、等しく価値がない。
ただただ、終わりのない痛みだけが、存在の確かさを魂に刻み込む。
😱 絶叫
叫びながら、覚醒する
(ノ゚Д゚)ノ
「――うああああああああああああああああッッッ!!」
叫びながら、手足を振り回し、砕かれる自分の体を守ろうとする。
関節がひしゃげ、不自由な状態に追い込まれたはずの腕が、足が、動く。
動くが、バランスを崩し、そのまま体が短い浮遊感に包まれ、床にぶつかった。
咳き込み、少量の胃液を必死に吐き散らしながら、涙と鼻水で顔がぐしゃぐしゃになる。
――全身を容赦なく叩き潰した、灼熱に似た痛みが掻き消えていることに気付く。
🤚 背中
背中に、触られている
背中を、蹲る自分の背中を、誰かが優しく、掌で撫で付けているのだ。
「落ち着いた?」
「スバ……」
(ノ゚Д゚)ノ
「うああああああああああ――ッ!!」
大きく身をひねり、背中に触れている白い手を、乱暴に振り払った。
背中、だ。背中に、触られたのだ。
今も、直前も、自分は背中に触られて、次の瞬間、あの苦痛が――。
🦷 牙
何もかもが、恐ろしい
転んだ体を、やけにざらつく黒い感触に受け止められる。
怯えるこちらを見たのは、鋭い面貌を持った爬虫類の眼光だ。
その口に並ぶ牙の群れが、自分を容易に噛み砕ける凶器だと理解した途端。
「うあああああああ――ッ!!」
立ちはだかる小さな影を突き飛ばした。
「ベアトリス!」
高い、銀鈴の声音が必死に何かを叫んだが、耳を塞ぐこちらには届かない。
🏃 逃げる
『死』が、追ってくる
息を切らし、涎をこぼし、脂汗を浮かべながら、懸命に懸命に通路を走る。
背後、誰かが追ってくる気がして、振り返りたい気持ちを何度も堪えた。
人は生まれながらに破滅している。
一秒ごとに老い、一秒ごとに死に向かい、一秒ごとに終わりへと落ちていく。
だが、今の自分にそんな観念的な『死』など意味を為さない。
『死』が追ってくる。殺される。殺される。このままでは殺される。
殺されたはずなのに、まだ殺される。
あれほどの痛みを与えられてもなお、人というのは死ねないのか。
🩸 巨人
――逃げた先に、あの男がいた
石造りの通路を懸命に駆け抜け、見知らぬ部屋で、上へ向かう階段を見つけた。
長い、長い長い、長すぎる階段を上がって、息を切らして、上がって、そして。
「――オメエ、こンな朝っぱらから何しにきやがったンだ、オイ」
眼前に立つもの、それが巨人であるかのような錯覚がある。
同時に、人という生き物が、これほど猛々しい鬼気を纏えるのだという事実も。
「一人かよ、オメエ。稚魚が一人って、お話になンねえだろ。昨日の子分と、いい女共連れて出直せよ、オメエ」
――きてはならない、獰猛な獣の檻の中に入り込んでしまった。
👂 聞いてやる
――聞いてやる、と言われる
「おうコラ、無視ぶっこいてンじゃねえぞ、オメエ」
背後へ走ろうとした瞬間、何故か男の胸板に正面からぶつかる。
のけ反った額を木の棒に押され、そのまま後ろへ倒れ込んだ。
「おいおい、オメエ、まさか泣いてンのかよ。下で連れとケンカでもしたのかよ、オメエ」
「ったく、仕方のねえ野郎だな、オイ」
「オラ、何があったか話してみろや。聞いてほしいンなら聞いてやる」
「……う、ぁ?」
「こンなとこまで逃げ込ンでくンだ。よっぽどのこったろーが、オメエ」
凶悪無比に思えていた存在が、ゆっくりと確かな輪郭を帯びた気がした。
人の形をしているだけではなく、人の情と在り方が実像を結んでいく。
🦈 なンて言うわけねえ
――そんなわけが、なかった
「――なンて言うわけねえだろうが、馬鹿が」
(ノ゚Д゚)ノ
「ぎ、が、ぁぁあああああ!?」
肋骨の隙間に木の棒の先端が滑り込む。
それだけで、文字通りに血を吐くような苦痛が全身を貫いた。
「何、逃げてきてンだ、オメエ。おまけに、逃げた先がオレのとこってのはそれこそ何のつもりだ、オメエ。オレはオメエの保護者でもダチでも何でもねえぞ、オメエ」
「お話し合いで仲良く片付く関係かよ、オメエ。それで済むなら、端からオレがこンなとこ呼ばれるわけねえだろ。殺す気でこいよ。オレは遊ンでやンよ」
男があとわずかでも粗暴な腕しか持ち合わせていなければ、臓腑は弾けている。
そうなっていないのは、男の恐ろしいほどの才能だ。
🩹 爪
階段の縁で、指を掛ける
「失せろ、稚魚」
臓腑をつつく感触が遠ざかり、次いで男の足に乱暴に横腹を蹴りつけられる。
ふわりと体が浮かび上がり、為す術もなく転がり、広い空間から退場させられる。
「い、やだぁぁぁ……ッ!」
階段を転がり落ちる、その光景を幻視して、思わず床に爪を立てた。
歪な音がして、右手の中指と薬指の爪が根本から剥がれる。
「痛い……痛い、痛い、痛いよぉ……」
ぽたぽたと、流れる血が手首を伝って床に落ちる。
❓ なんで
なぜ、自分がここにいるのか
「なん、で……」
砕け散ったはずなのに、ここにある。
灼熱に呑まれ、消え去ったはずなのに、まだここにある。
全てが夢か、幻か、そんなものであれば、よかったのに。
「予知……夢……」
それが起きた理由を、自分なりに理屈で片付けようとして、そう考えて。
きっと、どこか、それすらも対岸の火事のように、他人事のような曖昧さで考えて。
その浅慮と浅薄の代償を、壮絶な苦痛で支払うことになるとも知らずに。
☕ コップ
――コップを、洗わなかった
ほんの、数時間前まで、自分はぬくぬくとした、倦怠の日々の中にいた。
――父と母の視線に、ただ顔を伏せていればいいだけの、そんな場所にいた。
家を出るとき、いってらっしゃいと母に声をかけられた。
自分は、それに答えなかった。何故か。
――台所の、水につけたコップを、洗っていなかったからだ。
ココアを飲んで、こびりついた茶色い汚れを、洗うのが面倒だった。
母の声に答えて、会話が生まれてしまったら、コップを洗えと言われるかもしれない。
だから、母の声に答えなかった。コップを、洗いたくなかったからだ。
コップの一つも洗わずに、優しい母に何も言わずに、こんな場所で、死にそうだ。
🚪 いってきます
――言えば、よかった
「……いってきますって、言えばよかった」
後悔ばかりの、人生だった。
やり直したいことなど両手両足の指でも足りないけれど、いの一番に、それが浮かんだ。
「……俺は、死ぬ」
生きとし生ける全てのものはいずれ死ぬが、自分はここで死ぬのだ。
知っているものが、誰もいないこんな場所で。
父も母もいない、見知らぬ他人たちに囲まれて、汚い血の塊になって、死ぬのだ。
👤 黒い影
『死』が、自分の顔をしている
「俺は、死ぬ。俺は、死ぬ。俺は……死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬ……」
『死』は変わらず、こちらの運命を絡め取るために微笑みながら佇んでいる。
黒い影が立ち上がり、こちらを嘲るように笑っているように見えた。
自分の顔を張り付けた『死』が、指差して震える自分を嗤っている。
「笑うな」
「笑うな。笑うんじゃねぇ。笑うんじゃ、ねぇ……!」
「笑うな、やめろ。俺は、死ぬ。お前にじゃない。お前に殺されるんじゃない」
『死』の具現化が、初めて、その表情を歪ませた。
それが、影の弱点に思えて、ここぞとばかりに攻め立てる。
「俺は、お前には殺されない。俺は死ぬ。確かに、俺は死ぬ! 死んだんだ! 死んで、ここに戻って、だけど、俺はお前には――」
🖤 黒い女
――世界が、止まる
唇が、意のままに動かなくなった。
動かない。体が。――否、動かないのは体ではない。世界そのものが、止まっている。
そんな世界にあって、動けない自分を残して、唯一、動くものがある。
「――愛してる」
――それは、たぶん、黒い女だった。
黒が女の形をしているのか、女が黒を纏っているのか、どちらか定かではない。
花嫁衣裳のような黒い装束を纏い、黒いヴェールが顔貌を隠す。
💔 心臓
――心臓に、指が触れる
「――愛してる」
いったい、どれほどの感情を煮詰めれば、その唇から漏れる言葉に近付くだろう。
世界の全ての『愛してる』を含有すれば、きっとこの女の『愛してる』になる。
細い指先が胸板を、皮を、肉を、骨を通り抜けて、鼓動を刻む心臓へと寄り添う。
「――愛してる」
愛を囁くのと同じ情熱を込めて、女の黒い指が心臓を愛撫する。
転落の衝撃も、灼熱も、母への罪悪感も、この痛みの前では塵芥のように思える。
絶叫できるなら、させてほしかった。
それができない。ただ、痛みと、向き合わされる。
――あらゆるものへの嫉妬心が、そうさせているかの如く。
💧 残骸
――残骸は、泣き続けた
解放は、唐突のことだった。
息を吐いて、その場に崩れ落ちる。
そんな無様な醜態を、止まっていた黒い影が指差して、声高に嗤っていた。
謀られたのだと、その笑う姿を見ていて気付く。
弱味を見せた素振りをすれば、容易に飛びついて、踏んではならない虎の尾を踏むと。
「俺を……」
続く言葉は、言葉にならなかった。
――いっそ、殺してくれ。その言葉は、声にならない。
殺されたとして、本当に自分は『殺されられる』のだろうか。
階段を、靴音と心配げな声が駆け上がってくるまで。
それは――ナツキ・スバルの残骸は、泣き続けた。
第六章39『残骸』終了。
スバル
エミリア
レイド