第六章61
『――立ちなさい』
選べるはずのない選択を迫られたスバルに、届くはずのない声が届く。
⚖️ 残酷な選択
――胸の奥が、焦げていく
――選択が、それも残酷な選択が、ナツキ・スバルを蝕んでいた。
じりじりと、胸の奥で何かが焼け焦げていく音がする。
「か弱い女の子を組み敷いて、その細い喉に手をかける。ゾクゾクしてこない? それとも、お兄さんみたいな体質だと、こんな経験はありふれてるのかしら?」
「震えちゃって、かーわいいの。そんなんで、大事な大事な選択ができるの?」
それは、スバルが一度目にした、非情の光景。――ただし、見え方は逆。
今の状況と全く同じように、『ナツキ・スバル』が、メィリィを絞め殺した光景――。
🚫 証拠はない
――証拠は、ないと言われる
「俺が、『ナツキ・スバル』を取り戻したら、今いる俺が消えるって証拠は……!」
「ないよ。ないさ。ないって。ないから。ないってば。ないんだけど。ないってのに。……それ、慰めになるの?」
「堂々巡りだよ、お兄さん。私たちだって、知らないことの話はできない。……正直、食べたものを返したことないからわっかんないなァ。だって、食べちゃったんだもん」
だが、スバルにはひどく、『食べてしまった』という言葉が重く感じられた。
🏠 十七年
――失うのは、二日ではない
今ここでスバルの魂に圧し掛かる命題は、『自己の喪失』を天秤にかけた死だ。
意識のある状態で過ごした時間は、合計したら二日にも満たないだろう。
――だが、ナツキ・スバルには、元いた世界で過ごした十七年の時間があるのだ。
うまく、やれてはいなかった。スバルは、人生が下手くそだった。
だが、うまくいかないなりに、試行錯誤した時間があって、それでもスバルなりの大舞台を足掻いていたつもりだった。
ラムと約束を交わし、メィリィを守ると誓い、エキドナの許しを心に刻んで、ユリウスに戦えと叱咤し、ベアトリスを愛おしいと信じて、エミリアを――。
――エミリアを、好きになった、自分が、消えるのか。
🪞 ひび割れ
――体が、ひび割れていく
「嫌だ……」
頬に亀裂が入り、ルイの首にあてがった両腕にも蜘蛛の巣状のひびが入った。
痛みはない。亀裂から血が溢れることもない。不思議と、亀裂の奥には闇があった。
それはきっと、ナツキ・スバルが纏っていた『ナツキ・スバル』という欺瞞の殻だ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ……嫌だぁ……っ」
「そうだよ。当然サ」
ずっと後ろ向きだったスバルの人生に、ようやく射し込んだ陽だまりなのに。
どうしてそれを、自ら手放さなくてはならないのだ。
🪑 椅子取り
🍽️最も身近な、他人なんだ
「そう、お兄さんは、お兄さんのまま。それが正しい。一度は奪い取ったんだ。椅子取りゲームだよ。空いた椅子に、座った奴がキングなのサ」
「押しやった相手には、ご退場願わなくちゃ。認めるんだよ。自分の存在を。声高に叫ぶべきなんだよ、自分が本物だって! なァ、そうだろ!」
「認めろ! ――『ナツキ・スバル』は、お兄さんにとって最も身近な他人なんだッ!」
「さァ、殺せ! 殺そう! 殺そうよ! 殺すんだ! 殺して! 殺せば! 殺しちゃおう! 殺してやれ! 殺してしまえ!」
「――お兄さんが、この世で唯一の、誰の代用品でもない、ナツキ・スバルだ!」
👤 人影
――誰かが、見下ろしている
だが、今一番強く感じるのは、堪えられない涙だった。
誰かが、スバルを、ルイを、見下ろしている。
「……俺が、怖くなって出てきたのか、『ナツキ・スバル』」
ぼやけた人影は何も言わない。
「俺は……俺は、消えたくない。死にたくないんだ。だから、俺は……」
「みんなと一緒にいたい。みんなが好きなんだ。だから、俺は……」
「だから、俺は、お前じゃない! お前と俺は……!」
😨 誰もいない
🍽️誰と、話しているの
「……誰と、話してるの、お兄さん」
「――誰も、誰もいないのに、誰と話してるの、お兄さん」
カタカタと牙を震わせ、ルイが信じられないような顔でそう呟く。
「ここは、あたしたちの場所……邪魔は入らないはずなのに。この場所で、私たち以外の誰と話して……やめてよ。お兄さんはあたしたちの、私たちの……ッ!」
涙でぼやけた視界、揺らぐ人影、その輪郭が少しだけ、はっきりする。
🔵 立ちなさい
――立ちなさい、と怒鳴られる
「――どうして、どちらか一つだけを選ぼうとするんですか?」
聞いたことのない声で、この場にいないはずの、誰かの声で。
微笑んでいるところを見たことがない――青い髪の少女が、微笑んで立っていて。
「――立ちなさい!!」
――彼女は、世界で一番厳しい声で、ナツキ・スバルを怒鳴りつけた。
📣 何度も
――許しては、くれない
「立ちなさい!」
何度も何度も、それはスバルの心を非情に、手加減抜きで打ちのめす。
痛いのだ。苦しいのだ。辛いのだ。悲しいのだ。心は今にも張り裂けそうだ。
だからせめて、結論を出した。だから、もう、いいじゃないか。
「立ちなさい――!」
割れ砕ける心のままに、決断するスバルを、許してはくれないのだ。
言葉を交わしたこともない。思い出だって、今のスバルの中にはない。
それなのに、どうして、どうしてこの胸はこんなにも熱い。
🦁 英雄
レムの、英雄
「立ちなさい、ナツキ・スバル! 立ちなさい! ――レムの英雄!!」
記憶にいない少女の涙声、その声に英雄であれと叫ばれて、心が震える。
そんな馬鹿な話があるものかと、笑いたくなるほど調子よく、スバルの心が震える。
「立ち上がれたなら、いってください。いって、救ってきて、全てを」
「全ては全て。何もかも。全部、全員、自分も、最も身近な他人さえも!」
こんな、色んなものの足りない、自分さえも救えない、自分に。
たった一つを手放そうとしたスバルにも、できると本気で思っているのか。
「やれますよ。だって」
「――スバルくんは、レムの英雄なんです」
🦁 コル・レオニス
――種子が、芽吹く
黒く澱んでいたそれは、まるで少女の、愛の告白のような響きに浄化されて。
――否、愛の告白のような、ではない。あれは、愛の告白だった。
それでもなお、求め欲し、全てを繋ぎ止めたいと、この手から何一つ取りこぼしたくないと、自分すら、自分の手で手放したくないのだと。
そう希う、臆病な『強欲』に呼応して、願望を叶える力となって開花する。
「こいよ、――コル・レオニス」
スバルの内で、行き場をなくしていた『強欲』の種子が芽吹く。
その瞬間を、青い髪の少女の微笑みだけが、祝福していた。
🧊 揺るがない
――もう、揺るがない
「――お兄さん? どう、したのサ。ほら、さっきの続き……続きをね?」
――自分でも驚くぐらい、今、頭が冴えている。
「もう、何も言わなくていい。お前の、根性のひん曲がった説明にはうんざりだ」
「根性がひん曲がったって……酷いなァ。私たちはあたしたちなりに、ちゃァんとお兄さんのことを思って、色々とアドバイスしてあげただけなのに……」
「そうやって、聞こえよがしに俺の知ってる言葉を使うのもやめろ。そうやって俺を揺さぶろうとしても無駄だ。――今の俺は、もう揺るがない」
――記憶がなくなっても、スバルはスバルなんだと、そう言われた。
今、やるべきことが固まったスバルにすれば、それは道しるべであり、希望の糸だ。
🍜 タンメン
――ナイフとフォークは、片付けろ
「――ナイフとフォークは片付けろ、食い逃げ犯。お前に食わせるタンメンはねぇ」
そしてスバルの表情に、一切の情がないことを見て取り、俯いた。
「――あァ、クソ、クソ、クソ。あと一歩、あと一歩だったのに」
「あと一歩で、完全に『ナツキ・スバル』とナツキ・スバルを引き剥がせたのに……!」
「……なんだそりゃ。なんで、そんな真似を」
「――そんなの、同じ人間を二度は食えないからに決まってるでしょッ!?」
「別々でなきゃいけなかったんだよ! 一度食べた『ナツキ・スバル』と、食べ残されたナツキ・スバルは別々でなきゃいけなかった。そのために、あれこれ趣向を凝らしたのに……全部パーだ! 笑っちゃうね!」
🍴 飽食
🍽️あたしたちを、満たせたのに
「お兄さんが……お前だけが、食うに飽き飽きした私たちを満たせたのに……『飽食』のあたしたちを、お前だけがッ!」
聞き間違いでなければ、彼女が名乗った肩書きは『暴食』だったはずだ。
「『美食家』のライも! 『悪食』のロイも! なァんにもわかっちゃいないのよ! 次から次へと、馬鹿みたいに無分別の野放図に食い散らかして……ダメ兄弟ッ!」
「お前は、仲間と一緒になって他人の記憶とか、名前……って表現すりゃいいのか? とにかく、そういうもんを奪いまくってる。食いまくってる。だな?」
記憶を食われ、自分が何者なのかを見失った例がスバル。
名前を食われ、周囲に忘れられたと慟哭した例がユリウス。
そして、おそらくは両方を食われ、世界から忘れられ、目覚めぬ眠りに落ちたレム。
🎀 幸せ
🍽️幸せに、なることだよ
「何のためにそんなことをしてやがる? お前らの目的は、なんだ?」
「――幸せになることだよ」
「――お兄さんさァ、人生が不公平だって思ったことない?」
「あるぞ」
「私たちも、あるよ。っていうか、人生って不公平そのものだよ。生まれは選べないし、親も選べないし、環境も選べないし、未来も選べないし、何一つ選べない」
「――でも、もしそうじゃなかったら? 生まれが選べたら? 親が選べたら? 環境が選べたら? 未来が選べたら? ……誰だって、より良い人生を選ぶでしょ? 違う?」
「だから、あたしたちは、時間をかけて一生懸命、私たちにとっての最高の人生を捜してる」
「きっと、どこかにあるッ! その、運命の人生に巡り合えるそのときまで、食って、齧って、食んで、ねぶって、しゃぶって、貪って、暴飲ッ! 暴食ッ!」
💀 『死』の経験
――唯一、食べられないもの
「老若男女、ありとあらゆる人間、人種、立場も何もかも飛び越えて色々食べてきた私たちだけど、唯一、知らないものがあるの。なんだかわかる?」
「なんだろ。わかんない。ろくでなしな自分の嘆き方とか?」
「――『死』の経験だよ」
「どれだけ他人の記憶を喰らっても、ありえないの。『死』の記憶だけは、絶対に手に入らないんだ。だってそうでしょ? 記憶って、生きてる間の記録だもん。――お兄さんだけが、例外」
「ねえねえ、死ぬってどんな感じなの? きっと辛いんでしょ? 苦しいんでしょ? 大変なんでしょ? 痛いんだよね? ねえ、ねえねえ、ねえねえねえ!」
「だから、お願い。――お兄さんの人生、お腹一杯、食べさせて?」
🖕 飢え死にしろ
――一個も、くれてやらない
無数の、数多の、普通の人間には持ち得ないだけのたくさんの経験値を。
こうまで無駄遣いする存在を、スバルはお目にかかったことがなかった。
「――三度目はねぇ。俺の苦悩も、俺の死も、俺の人生も、何もかも俺のもんだ。お前にくれてやるもんなんか、一個もねぇよ!」
「飢え死にしろ、馬鹿野郎。人生で一個しか死に方が選べねぇなら、俺がお前にオススメしてやるのはそれだ。――世界中で、一番苦しめ」
「失敗、した。したよ。しちゃった。したんだ。してしまった。しちゃいました。……あァ、あァァァァ」
「お前の望んだ通りにはならない。俺の名前はナツキ・スバル。菜月・賢一と、菜月・菜穂子が付けてくれた名前だ。――他も何もない。俺は俺だ」
「上書きされて、消えるかもしれないのに?」
「魔法の呪文を教えてやる。――それはそれ、これはこれだ」
👬 二人
――二人が、気付いている
「――あァ、もう。あとは、お兄ちゃんと兄様に任せるしかないのかァ」
「――ライと、ロイ。『美食家』と『悪食』?」
「私たち、ここから出られないの。だから、お兄ちゃんと兄様が食べてくれなきゃ、食べるものも選べない。……だから、お願いしたの」
「お兄さんがきたの、昨夜から二度目じゃない。――だから、お兄ちゃんも兄様も、どっちも気付いてるよ。お兄さんが、どこにいるのか」
――その、二つの脅威が『プレアデス監視塔』へ迫っているのだと、明らかにした。
「二人とも、お兄さんに興味津々だってサ。そりゃそうだよね。――自分たちが、今まで味わったことのない経験を、お兄さんってばふんだんにしてるんだからサ」
🚪 出口
――約束は、覚えている
「これ、出口か!?」
「できないよ。お兄さんには絶対できない。やってほしかったんだけどサ」
「疑心暗鬼にしても、自暴自棄にしても、自分も、他人も、嫌われ者も殺せやしない。意気地なしの臆病者。――優しく、ねぶってあげたのに」
「――。いや、歯が当たるからいい。矯正しろ、馬鹿」
スバルが惜しんだのは、ルイとの別れではなく、スバルを立ち上がらせてくれた声。
記憶と名前を奪われ、それ故に唯一、世界の果てでスバルを呼んでくれた少女。
「大丈夫。――約束は、覚えてる」
――そのときは厳しい声だけじゃなく、優しい声が聞きたいと、思って。
「お前の、人生は、あたしたちのもんだァァァ――ッ!!」
第六章61『――立ちなさい』終了。
ルイ
スバル