第六章35
『薄氷関係』
忘れた側と、忘れられた側。手掛かりは、スバルが倒れていた三層の書庫にある。
👂 聞こえた声
扉の前で、声が聞こえる
「――スバルは、忘れられることがどれだけ辛いのか知ってる。だから、誰かを忘れるなんて、冗談でも絶対に言ったりしないわ」
声に込められた強い信頼、それと同じぐらい大きな嘆願。
それはエミリアが、『ナツキ・スバル』へ向けているものだ。
断じて、『菜月・昴』へ向けられたものではない。
「……冗談でも言わない。そうね。珍しく、エミリア様の方が正しいわ」
無手の彼女は自分の肘を抱き、白い肌に爪を立てている。
それは戒めであり、悔恨であり、届かない誓願の痛々しい続きだ。
😔 覚えていない
ラムが、確かめる
「益体のない戯れ言よ、聞き流しなさい。さっきのことも、エミリア様たちにご心配をかけるだけ。ラムの名誉のためにも黙っていることね。もし喋ったら……」
「……本当に、覚えていないのね」
喋ったら怖い、とでも言いたかったのだろうか。
あるいは、スバルの方が彼女の軽口を先取りして、そう言うべきだったのか。
何も言わせてくれないのはラムの強さか、それとも弱さだったのか。
ただ微かに、スバルの胸元に縋りついた痕跡がわずかに残るばかりだ。
🤝 改めて
ユリウスが、名乗り直す
「……先ほどは、醜態を晒してすまなかった。改めて、いいだろうか?」
「お、おお。こっちこそ、なんつーか驚かせて……ああ、いや、話の腰を折っちゃ悪いな。承ります」
「そう硬くならないでくれていい。君に畏まられるのはいささか落ち着かない」
「改めて、ユリウス・ユークリウスだ。こちらにいらっしゃるアナスタシア様……彼女の騎士を務めている。君とは友人……の、ようなものだ」
「そうか、よろしく……なんで、そこに自信なさげ?」
「生憎と、君と私でお互いの認識に些少の違いがあってもおかしくはない。私は友人と思っていたが、君がどうだったかは……」
「文字通り、記憶の彼方ってか」
「――。そういうことだね」
「そんな心配しなくて大丈夫よ。スバルとユリウスはすごーく仲良し。それは、ちゃんと一緒にいた私たちが保証してあげるから」
👻 亡霊
アナスタシアの中身が、明かされる
🧣 エキドナ
「隠し立てを続けることは不和以外の意味を生まない。故に受け切れる土壌があると信じて、打ち明けさせてもらおう」
「……ずいぶんと、尊大で遠回しな物言いなのよ。とっとと本題に入るかしら」
🧣 エキドナ
「そんなに怯える必要はないよ、ベアトリス。――ボクと君とは、おそらくは関係の浅からぬ姉妹のようなものだ。お察しの通り、ね」
頼りを求めるようにスバルの袖口をそっと摘まむベアトリス。
スバルは幾許か躊躇ってからその手を取った。
微かに指先が驚きに震えるが、小さな掌はすぐに温もりを受け入れる。
🧣 エキドナ
「――今、この体に宿っている意思はアナのものじゃない。アナスタシア・ホーシンは、この体の奥底で眠りについている。こうして君たちと言葉を交わすのは、仮初の主として肉体を預かる亡霊さ」
「……何の話をしてるのか、さっぱりわからねぇ」
📉 満身創痍
明るい条件が、見当たらない
「いざ、塔へついてこれからというタイミングで、肝心のこちらが満身創痍……バルスはなけなしの記憶を失い、アナスタシア様の意識は深淵の中」
「あ、明るい条件が見えない……」
眠り続ける少女を、何らかの病にかかったらしき人々を、救う手段を求めてきた。
――そう、聞いていたはずだったのに。
🚶 足は止められない
エミリアが、顔を上げさせる
「みんなで、下ばっかり向いててもしょうがないと思うの。うんと悩みたい気持ちは私もわかる。わかるけど……でも、落ち込むだけじゃダメ」
「私たちは、たくさんの人の期待を背負ってこの塔まできたのよ。今、スバルとアナスタシアさんが大変なことになったのは、はっきり言ってとっても大変。だけど」
「足は止められない。――諦めちゃダメって、ずっと教わってきたもの」
その視線が最後にスバルへと向けられ、美しい紫紺に射抜かれて喉が詰まった。
「いたっ! 痛いのよ! ちょ、スバル!」
「あ、悪い……いや、悪くねぇ。これは、気合いが入った証拠だからな」
「いい顔で言っても痛いものは痛いかしら! 反省するのよ!」
💡 斬新な発想
しがらみが、ないという強み
「確かに、俺の記憶がすっぽ抜けてみんなに迷惑かけてるのは申し訳ない。でも、それがイコールで絶望的って話にはならねぇはずだぜ」
「考え方を変えてみろよ。今の俺なら、余計なしがらみに囚われない斬新なアイディアが湯水のように湧き出すかもしれねぇ。それが、この状況を打開するヒントになるかもしれないだろ?」
🧣 エキドナ
「……それはまた、ずいぶんと前向きな意見だね」
「後ろ向きになって得するか? 大事なもんは前にある。幸運の女神は前髪しかないってよく言うだろ? この世界の固定観念に囚われない、異世界の発想ってヤツだ!」
「……ん、そうよね。スバルはいつだって、色んな大変な場面を飛び越えてきてくれた。だからきっと、これも乗り越えちゃうわよね」
「ありがと、スバル。――うん、良かった。やっぱり、スバルはスバルなんだ」
彼女のこぼした、心底からの安堵の一声に、スバルもまた安堵する。
⚔️ 距離感
ユリウスとの距離感が、掴めた
「記憶の有無に関わらず、君が勇猛と無謀の区別がつかない一声を上げるところは変わらないなと思っただけだよ。我々に立ちはだかる障害がどれほど強大か、忘れてしまえたからこその発想、と言えるだろうか」
「そっちこそ、やけに板についた嫌味ぶりじゃねぇか。さては、そっちがあんた……いいや、お前の素ってわけか」
「……なるほど。エミリア様のおっしゃる通り、記憶の有無など些細なことなのかもしれないな。どうあれ、そうそう人の根は変わるものではないと」
「俺も、お前とどういう付き合いだったのか結構想像がついてきたよ。お互い、わかりやすいタイプで何よりだったな」
スバルとユリウスとの初対面は、お互いに印象は良くなかったはずだ。
「またよろしくだ、ユリウス。抜けた記憶が戻るまで、適度に苦労しろ」
「ああ、仕方ない。これも務めと、甘んじて受け入れよう。――記憶など些細なこと。そう、だとも。……その通りだ」
🦵 蹴り
調子に乗った直後に、蹴られる
「表に出てないだけで、この胸の内は嵐に見舞われてるけどな。まぁ、それはあとでエミリアちゃんに二人きりで優しく慰めてもらうから」
(・_・)
「――? 膝枕する?」
「あ、いえ、ごめんなさい。それはまだちょっと、早いかなぁって」
「準備ができたわ。運ぶのを手伝いなさい、バルスケベ」
(ノ゚Д゚)ノ
「痛ぁ!?」
「無駄に前向きなのはバルスの数少ない美点ね。それを活かして、食事の準備にも前向きに取り組みなさい。片付けと、掃除と、ありとあらゆる雑用にも」
「それ、ラムが楽したいだけなんじゃ……」
「あ、お師様、あーしも手伝うッス~! ご・は・ん! ご・は・ん!」
🥖 保存食
生鮮類は、底を突いた
「メニューは……なんか、いかにも保存食って感じだな」
「事実、いかにも保存食だもの。エミリア様のおかげでいくらか持ち運べた生鮮類も底を突いた。これから、味気ない食事が続くわよ」
「そりゃ、なるたけ早く塔を攻略して、人里へ戻りたいもんだな」
記憶がないのも相まって、この味気ない保存食が『異世界の味』として刻まれる。
これは辛い。
🔍 共有
🧣エキドナが、経緯を確かめる
🧣 エキドナ
「なに、ひとまず前向きに事態へ向き合おうと団結したところで恐縮だが、ナツキくんの身に起きた出来事について事情を共有しておきたいと思ってね」
🧣 エキドナ
「この塔へきたことで起きた異変は君の記憶だけだ。逆説的に言わせてもらえば、いつどこでボクたちにも君と同じ現象が起きるかわかりはしない」
「なるほど、それは確かに。我が事ながらあれだが、記憶喪失って面倒臭ぇからな」
「本当に我が事なのにあれな言い方かしら……」
⬜ 白い床
スバルは、三層で倒れていた
「エミリアちゃんたちは、どういう経緯で俺を?」
「それは……朝、竜車にスバルの姿が見えなくて、四層の部屋にも見つからなかったから心配になって……」
「ベティーはエミリアほど切羽詰まったりはしなかったのよ。ただ、この得体の知れない塔で契約者の行方がわからなくなるのは困りものかしら」
「三層の、あの白い書庫で倒れてるのを見つけて、緑部屋に運んだの」
「三層とは、この塔における複数に跨る階層の一つだ。我々がいる、この階層が四層。最上層である一層を目指し、攻略を進めている。三層はすでに攻略済み……他ならぬ君の知恵によって、だ」
「それはホントのお話。私たちはちんぷんかんぷんだったのに、スバルったら一人ですぐに解いちゃって……すごーく、カッコよかったのよ」
「ははは、ありがと。……ちんぷんかんぷんって、きょうび聞かねぇな」
褒められた照れ隠しだったのだが、何が問題だったのかエミリアが黙りこくった。
一瞬、彼女の瞳が深い感情に揺れるのが見えたが、その正体はわからない。
🌿 部屋のせい?
緑部屋のせいでは、なさそうだ
「ちなみに、記憶がなくなった原因があの部屋って可能性は?」
植物の形をとるなら、ある種の残酷性は考えられるのではないだろうか。
擬態によって虫を捉え、その生命力を吸い尽くす食虫植物のように。
肉体を癒す代わりに記憶を吸い尽くす。――そんな可能性があるのでは。
🧣 エキドナ
「なかなか突飛な発想力だが、それは考えにくい。その場合、君よりも長く、早くあの部屋に入っていたボクにまず異変があるべきだ」
🧣 エキドナ
「あとはそうだね……部屋にいた地竜は、君を忘れていたかい?」
「なに?」
🧣 エキドナ
「あの地竜は君にひどく懐いていた。仮に記憶を吸い尽くす悪癖があの部屋の精霊にあったなら、彼女は君にそっぽを向くかもしれないね」
「あの地竜、雌だったのか……」
📕 死者の本
その書庫には、『死者の本』がある
「その、タイゲタ? タイゲタの書庫ってのはどんな部屋なんだ? 何となく、聞き覚えはある響きなんだが……」
「あの書庫は、『死者の本』が存在する部屋だ」
「『死者の本』……ってのはまた、中二チックだな、おい」
「あの書庫には、世界各国の死者の名を冠した本が連なっていた。本を読むには資格がいる。おそらく、自分に関係のある死者の本だけが読めるというものだ」
「また悪趣味な……その本に、何が書いてあるんだ?」
「およそ、その死者の人生だろうか。強烈な思念が脳に焼き付くように押し寄せてくる。あまり、好んで何度も確かめたい内容ではないな」
「――俺も、本を読んで倒れてた? まさか、それで脳をやられた的な?」
🧣 エキドナ
「ない、とは言い切れないだろうね」
🤷 ノー関係
シャウラは、何も知らない
「何度言われても、あーしの答えは変わらないッスよ。あーしは、塔のことはルール以外はなんも知らねッス。お師様が塔で何をしても、あーしはノー関係ッス」
「そもそも、俺はどうしてシャウラにお師様なんて呼ばれてるのかも未知数なわけなんだが……」
「安心なさい。それについては記憶がなくなる前からバルスの答えは同じよ。都合がいいから何も言わずに利用しているだけ。……最低ね」
「勝手に勝手な結論出されましても!」
彼女の好意と親愛には奇妙な違和感を覚える。
エミリアやベアトリスが向ける、ひたむきなものとは根本が異なる何かを。
📚 書庫へ
書庫へ、行ってみる
「ともかく、その書庫ってのが怪しい。記憶の戻る手掛かりがそこにあるかもしれないってんなら、確かめにいくのも手だな」
「そうすべきだろう。それに、こうした状況になって素直に思い知る」
「思い知るって何を?」
「――君が、どれだけ多くを補ってくれていたかを、だ」
それは照れ臭いからではなく、本心からの苦笑だ。それこそ、買い被りが過ぎる。
ナツキ・スバルにそこまで寄りかからねばならないなど、末期も末期。
「なんにせよ、食べ終わったら書庫ってとこにいってみたい。俺の落ちた記憶がそこに散らばってんなら、拾い集めて詰め直したいとこだから」
「もう、そんな変な言い方して。ホントに、スバルなんだから」
「そのスバルなんだからって言い方、たぶん褒め言葉じゃないよね!?」
🌏 イセカイ
――イセカイとは、何のことか
🧣 エキドナ
「そんな空気に割り込むようで悪いんだが、ナツキくんに聞きたいことはもう一つあるんだ」
「まぁ、ここまできたらもう何でも言えよ。なんだ?」
🧣 エキドナ
「いやなに、これはあまり記憶のことや、塔の攻略とは関係のないボクの好奇心の質問なんだが……」
愛らしい表情の中、浅葱色の瞳にだけ深く理知的な色を宿し、言った。
「君がたびたび口にする、イセカイとはどういう意味なんだい?」
第六章35『薄氷関係』終了。
スバル
ベアトリス