狼の国を読む WEB版・初見向け解説
20話収録

第七章13

『神ならぬ身にて』

三日ぶりに目を覚ましたスバル。待っていたのは、見知らぬ天井と、冷たい目をした少女だった。

🌫️ ゆらゆら、ふらふら

「知らない天井だ」

意識が、船の上みたいに揺れている。

足りない。血も、肉も、骨も、安らぎも。

人を作っているものが、どこかでこぼれ落ちてしまったみたいに足りない。

それでも、進まなくちゃならない。

目を覚ますと、顔から胸元までが濡れていた。

スバル

(;´Д`)

「……知らない天井だ」

見上げた先にあるのは、粗末な木を大胆に組んだ掘っ立て小屋の天井。

記憶をたぐる。コンビニを出て、異世界に来て、砂の塔を攻略して、隣国へ飛ばされて――

ここはルグニカ王国ではない。ヴォラキア帝国だ。

スバル「レム……!」

✋ 握られたまま

「いい加減、離してください」

飛び起きようとしたスバルへ、横合いから硬い声が飛んだ。

レム

(¬_¬)

「――何を、バタバタと騒いでるんですか」

青い髪を短く切り揃えた少女が、険しく目を細めてこちらを見ている。

そして気づく。自分の右手が、彼女の手を握っていることに。

スバル

「まさか、起きるまで手を握っててくれたのか?」

レム

「は? 気持ち悪いこと言わないでください。あなたが、私の手を握って離そうとしなかったんです」

期待と現実の区別がつかず、機嫌をさらに損ねただけだった。

「手汗でぬるぬるします」

スバルスバルは瀕死。

🧊 埋まらないまま

「あなたの方が、よっぽど重傷でした」

スバル

「レム、どこもケガしてないか? どっか痛いところとか、隠さないで教えてくれ」

無事を確かめたいだけの問いかけ。

返ってきたのは、ひどく冷たい反応だった。

レム

「……あなたの方がよっぽど重傷でしたよ。あと少しで死んでしまうところだったのに、その自覚はないんですか」

スバル

(・・・・・・)

自覚は、ない。

レム「やっぱり、あなたを信用はできません」

記憶を失ったレムレムには、スバルスバルにまとわりつく瘴気の香りが悪印象を後押しする。

しかも今回は、溝を埋めるための時間すら作れていない。

ただ必死に、彼女を帝国の陣地から救い出そうとしただけだった。

🖐️ 消えているもの

黒くない、右手がある

欠けていた記憶のピースが、また一つ埋まる。

帝国の陣地に囚われたレムを助けるため、大博打を打った。

森で『シュドラクの民』と遭遇し、同じ牢にいた男と一緒に、彼女たちの儀式を受けた。

そして――

スバル

「……黒くない、右手がある」

水門都市プリステラで負った、右腕の醜い黒い紋様。

消えなかったはずのそれが、跡形もなくなっている。

あの黒い紋様が、ボロボロの右腕を治した。

悪夢のような記憶は、夢ではなかった。

『血命の儀』を生き延び、レムの奪還を成し遂げた。

――代わりに、多くの犠牲を出しながら。

💧 濡れていた理由

自分の左を見てみればわかります

確かめなければならないことが、まだある。

陣地に囚われていたはずの、もう一人。

スバル

「正直に聞くけど、あいつは……ルイは?」

レム

(¬_¬)

「――。苦々しい顔ですね。どうして、あの子を遠ざけるんですか」

説明しづらく、話しても通じないだろう理由がある。

レム

「――自分の左を見てみればわかります」

同じ寝床、同じボロ布の中。

ルイルイが、口を大きく開けてすやすやと眠っていた。

目覚めたときの、顔と胸元のドロドロした感触。その正体は――

声にならない絶叫が上がった。

🌿 森の集落で

「無事に目が覚めたようだナ」

ミゼルダ

「おオ、スバル! どうやラ、無事に目が覚めたようだナ」

広場に出たスバルを迎えたのは、『シュドラクの民』の若き族長。

褐色の長身が、無遠慮に上から下まで様子を確かめてくる。

ミゼルダ

「死ねバ、勇敢な同胞の魂を天に返シ、亡骸は土へ弔うだケ。そうならズ、お前の魂が留まったことは喜ばしイ」

飾らない言葉が、静かに胸を衝く。

ミゼルダ

「すでに相手がいるのが残念ダ。レムとルイ、もう一人くらい増やさぬカ?」

レム

「お言葉が過ぎます。私はこの人のことを、信用も理解もしていません」

ミゼルダ

「ならバ、私がもらい受けてもいいのカ?」

レム

「ええ、当然です。差し上げます」

スバル

(╬゚Д゚)

「俺の意思が反映されてない!」

ルイ「あーうー!」

杖をついたレムレムは、まだ足元がふらつく。その腕にルイルイがしがみついている。

見渡した集落には、文明の兆しがない。少ない人数で、狩りをしながら生きている。

スバル「少ない人数だから、毎日の狩りで暮らしていける……でも、俺は」

唇を噛んだ横顔を、レムレムが黙って見つめていた。

何を思っているのか、今のスバルには読み取れない。

🎭 集会場にて

「ようやくお目覚めか」

広場の奥、集落で一番大きな建物。

その入口をくぐった先で、地べたに膝を立てて座る男が待っていた。

👤 面の男

「ようやくお目覚めか。いいご身分だったではないか、ナツキ・スバル」

スバル

(・・・・・・)

言葉を失う。男の顔に被せられているのは、赤と白に塗られた鬼の面だった。

スバル

「……お前、そのお面なんなの?」

👤 面の男

「献上された品だ。元より、今後も顔は隠しておくつもりだった」

焚火を囲むシュドラクの中に、男が一人紛れている。

タリッタタリッタが止めに入ろうとしたが、男の一言で引き下がった。

その態度は、恐怖でも信頼でもない。

敬服だった。

短時間で、いったいどんな手を使ったのか。

⚠️ 三度目はない

「俺の名を、軽はずみに口にするな」

スバル

「とりあえず、あんたとサシで話がしたい。――ヴィンセント・アベルクス」

面の向こうの顔は見えない。

だが集会場の空気が引き締まり、体感の温度が下がった。

アベル

「一度目は朦朧としていたから許すが、俺に同じことを語らせるな。故に、三度目はないと知れ」

スバル

「……嫌だと言ったら?」

アベル

「相応の罰を与える。貴様に音を上げさせる方法など、いくらでも知っているぞ」

はったりではない。手数が限られていても、この男は言ったことを必ず成立させる。

スバル「――。いいや、それはやめとく。言い争いにきたんじゃねぇよ。――アベル」

振り返ると、男二人の言い合いを白い目で見ているレムレムがいた。

レム

(¬_¬)

「死にかけて三日も眠っていたくせに、つまらない意地を張って体を大事にしないみたいでしたから」

三日。スバルは、それだけ眠っていた。

🚪 二人きりにするために

「嫌だと言ったら、どうしますか?」

アベル

「ミゼルダ、全員を下がらせろ。俺と、この男だけでいい」

族長が従えば、他のシュドラクも残らない。

問題はレムレムとルイルイだった。

アベル

「貴様のしたい話をするのに、その女がいるのは都合が悪いだろうよ」

見透かされている。だが、その通りだった。この先の話を、レムに聞かせたくはない。

レム

「……嫌だと言ったら、どうしますか?」

スバル

(;゚Д゚)

さっきのやり取りを揶揄されている。分かっていても、食い下がられると弱い。

スバル

「だったら……だったらズルいけど、走って逃げるよ」

杖をつく彼女には追いつけない。今のスバルが明確に勝れる、数少ない一点。

ルイルイが唸りながら、レムレムの腕を引いて外へ連れ出そうとする。

レム

「ごめんなさい、心配かけてしまいましたね。ただ少し、この臭い人に嫌味を言いたくなっただけですから」

スバル「臭い人……」

どんな嫌味よりも、その一言が深く刺さった。

🔥 焚火を挟んで

「これは、貴様の功績だ」

二人きりの集会場。真ん中に燃える焚火を置いて、炎越しに向かい合う。

スバル

「まず聞きたいのは、どっからどこまでが夢で、本当のことだったのかだ」

アベル

「バドハイムの外に展開していた帝国の陣は、シュドラクの力で以てことごとく打ち滅ぼした。貴様の見たものは、幻でも何でもない」

現実だと、改めて告げられる。胸の奥に重いものが差し込まれた。

アベル

「俺が指揮し、シュドラクが陣地を滅ぼした。それも、こちらの被害は皆無だ」

スバル

「――。つまり、お前の指揮能力がすごいって自慢話か?」

アベル

「いいや、そうではない。――これは、貴様の功績だ」

スバル

(・・・・・・)

思考が止まる。称賛される理由が思いつかない。

アベル

「俺やシュドラクが無傷で勝利できたのは、相手の陣容を子細に知ることができたからだ。他ならぬ、貴様の口から聞き出してな」

スバル「――は?」

『血命の儀』のあと、瀕死のスバルを生かすために薬が使われた。

その副作用が、頭を朦朧としたまま固定した。

だから――聞かれたことに、ペラペラ答えた。

小間使いとして数日を過ごした野営地。どこに何があり、何人いて、武器がどこにあるか。

先制でそこを潰せば、圧倒的有利になる。

スバル「何故、戦争の道具として役立ったことを喜ばなくてはならない」

💢 埋まらない溝

「それを、夢物語というのだ」

スバル

「薬なんて、冗談じゃねぇ! そんなもん、勝手に使いやがって!」

アベル

「だが、それがなければ貴様は女と再会することもなく死んでいた。死人を生かし、罵られる謂れはない」

スバル

(╬゚Д゚)

「俺は戦争に加担なんかしたくなかった! あんな、大勢の人が、死んで……なのに、お前は!」

アベル

「――貴様、何か勘違いしているな」

仮に意識がはっきりしていたとしても、レムを助けるにはシュドラクの力が要った。

ならばスバルは、持てる知識を吐き出したはずだ。野営地の陣容も、話したはずだ。

アベル

「結果は同じだ。貴様が瀕死であろうとなかろうと、結局は貴様の知識によって野営地の秘密は暴かれ、奴らは死に絶える」

抗弁を探そうとして、その流れが自然と浮かんでしまった。

スバル

「けど、その場合は俺が作戦会議に加わってる。人死にが出るような作戦は、俺だったら絶対に反対した」

アベル

「貴様に説得できたと? 殺す以外の術を持たず、知らないモノたちを説得し、人死になく円満に女を救い出すことが可能だったのか?

スバル

「それ、は……」

アベル「教えてやる。――それを、夢物語というのだ」

見ているものが違う。生き方が異なっている。

隔絶した死生観の違いが、二人の間に横たわっている。

レムが失われるまでの短い時間で、その壁を越えることはできなかった。

そう、スバル自身も確信してしまっていた。

スバル

「……だからって、俺は諦めたくなかった」

アベル

「貴様が諦めぬ代わりに、貴様以外の誰かが死ぬ。立ち止まり、愚考に耽るということは、それを許容するということだ」

👑 名乗り

「俺は王だ。王の中の王」

許し難い現実を呪いながら、スバルは歯を食いしばる。

苛烈さと引き換えに、この男は結果を引き寄せたのかもしれない。

だが、代わりに失われる命を選別する権利が、どうしてこの男にあるのか。

スバル

「お前、何様なんだよ。神様にでもなったつもりなのかよ……」

アベル

「たわけ。神でも英雄でもない。無論、この世界を見下ろす邪悪な観覧者とも違う」

アベル「――俺は王だ。王の中の王」

アベル

「民草は、頂に立つそれを皇帝と呼ぶ。――俺が、それだ」

自分の胸に手を当てて、堂々と宣言する。

仮面の向こうの表情は見えない。

それでも、一度だけ見た素顔が大胆不敵な笑みを浮かべているのが、目に浮かんだ。

アベル「――神聖ヴォラキア帝国、七十七代皇帝、それが俺だ」

スバル

(・・・・・・)

息を呑むことさえ忘れた。

アベル

「もっとも、今は頂から降ろされ、野に下った身だがな」

第七章13『神ならぬ身にて』終了。