狼の国を読む WEB版・初見向け解説
20話収録

第七章12

『ヴォラキア帝国』

儀式は終わった。だが、目を覚ました先で待っていたのは、望んだはずの結果だった。

🌀 渦の底で

呪いは、この器を死なせまいとする

何かが、おぞましい何かが渦を巻いている感覚があった。

ぐるぐる、ぐるぐると、勢いよく回り、全てを呑み込んでゆく渦。

それは、ずっとこの身の奥底に眠り続けていたおぞましき呪縛。

決してほどけることなく、絡み合い、結び合った『死』の呪縛。

この命は先約済みだと、誰にも売り渡すまいとする強欲なる呪印。

本来なら命を蝕むはずの呪怨が、互いに干渉し、憎み合い、奪い合う。

――結果、相反する答えへ至る。

呪いは、この器を死なせまいとする。

獣に、龍に、呪われた器を中心に、ぐるぐる、ぐるぐると、渦巻いて――

🗺️ 天幕の色と数

雑用係が見ていたもの

赤い旗の天幕が、治療用。陣地にあったのは全部で五つ。

黒い旗の天幕が、備蓄用。陣地にあったのは全部で二十五。

白い旗の天幕が、幹部用。陣地にあったのは全部で三つ。

金の旗の天幕が、指揮官用。陣地にあったのは、たったの一つ。

雑用係の名目であちこちを走り回る自由があった。

だから、短い時間でも意外と各所に目を配ることができていた。

アベル

「――十分、有用なものだ。張った陣容を知れれば、おおよそ敵の兵力が割れる」

ミゼルダ

「我らの勇気と力を示すのミ。よくわかっている、同胞ヨ」

アベル「――では、始めるぞ、シュドラク! ここから、反撃の狼煙を上げる!!」

💧 顔に濡れた布

「ウー、スーの護衛! 看護! 子守役!」

びしゃり、と顔に冷たく濡れた感触を被せられ、全身が驚きに跳ねる。

スバル

「お、俺が話せることなんて何もねぇぞ……!」

ウタカタ

「おオ、スー、起きタ。元気になっテ、ウーも安心」

ウタカタ

「ウタカタ! ウー、スーの護衛! 看護! 子守役! 目覚めてよかっタ!」

――一度、毒矢で息の根を止めた相手でもある。

だが、この笑顔を見るに、今は友好的な関係を築けているらしい。

ウタカタ

「スー、『血命の儀』、終えタ! エルギーナ、勝っタ!」

🖤 ぐしゅぐしゅってしテ

「……なんじゃこりゃ」

スバル

「あの、ウタカタさん? 俺のその、右手ってなんかなってます?」

ウタカタ

「スーの右手? ア、すごかっタ! ぐしゅぐしゅってしテ、ブワーってなっタ」

右腕には元々、水門都市で負った黒い斑模様の紋様が走っていた。

だが今、指先から前腕の半分までが、黒い手袋を嵌めたように真っ黒に染まっている。

触れるとぶよぶよと弾力があり、右手の側の感覚は乏しい。

爪を立てて引っ掻くと、ボロっと土の壁のように剥がれ落ちた。

憑りつかれたように剥がし続け、やがてその下から――

綺麗な、新品の右手が出てきた。

😱 なくなっていた

「手首から先がなくなって、助からぬと思ったがな」

アベル

「まさか魔封石の指輪ごと殴りつけるとは思わなんだ。手首から先がなくなって、助からぬと思ったがな」

スバル

「待った待った待った、怖い話されてる? 誰の手首から先がなくなったって?」

アベル

「貴様だ」

ウタカタ

「スー!」

アベル

「腕がなくなり、瀕死の貴様の言葉を吐き出させた。その後は死ぬものと思っていたが……貴様の手から、黒い澱みが溢れたのだ」

アベル

「それが瞬く間に腕の形を取り、黒い腕となった」

――何が起こった結果なのか、本人にもわからない。

ただ、右手に刻まれていた黒い紋様が無関係でないことだけは間違いない。

スバル

「右手以外の傷は、ちっとも治ってやがらねぇんだから」

🔥 高台から

陣地が、燃えていた

スバル

「――レム。そうだ、レムだ! こうしちゃいられねぇ、レムを……」

寝床から降りた途端、全身をつんざく痛みに呻く。

アベル

「戯けが。右腕が生え変わったくらいで、瀕死の肉体が復調したとでも思ったのか?」

アベル

「こっちだ」

足を引きずり、大岩をよじ登って隣に並ぶ。

アベル

「――見ろ」

黒煙が上がり、炎に包まれる陣地――帝国兵の野営地が、火の手に呑まれていた。

🎺 鬨の声

勝利の、凱歌

褐色の肌に弓を背負い、戦場を縦横無尽に駆け抜ける女戦士たち。

奇襲により陣地は壊滅状態へ陥り、帝国兵は抵抗する術を失っていた。

アベル

「攻勢に回り、武器を奪い、薬品を焼いて、指揮官を穿つ。手指と頭を失えば、あとはなりふり構わず背を向けて逃げるしかない」

森で獣を狩ることを生業とする者たちから、逃げられはしない。

はるか彼方までも見通す矢が、背を向けて逃げる兵の心臓を正確に撃つ。

何人が逃げ延びただろうか。いったい、何人が死んだのだろうか。

アベル

「貴様が望み、貴様がもたらした情報で以て、貴様の同胞たちが成し遂げた戦果だ。これを笑わず、何を笑う」

💥 胸倉を掴んで

「英雄幻想だ」

スバル

「俺が望んだだと? こんな、こんな光景をか!?」

アベル

「――ならば、流血なく願いが叶うとでも思ったのか?」

その舌鋒に切り刻まれ、何も言い返せない。

アベル「貴様は、自分自身以外の流血なしに願いが叶うとでも思っていたのか?

アベル

「自分自身が血を流せば、争う第三者たちを止められるとでも本気で考えていたのか?

アベル

「それは貴様の掲げたくだらぬ英雄願望などよりなお性質の悪い、英雄幻想だ」

アベル

「貴様は人間だ、ナツキ・スバル。英雄でも賢者でもない」

否定できない事実だ。それはわかる。でも、呑み込めない。

異世界にきてすらなお、ナツキ・スバルの倫理観は日本の高校生のままだった。

アベル

「俺は英雄を望まぬ。奴らに縋り、頼り、委ねることなどない。あらゆるものを背負い、豊かな方へ進める。――英雄に、それはできん」

🌬️ 風に飛んで

「顔か。――ならば、見せてやる」

スバル

「顔も、見せない奴と何を……」

アベル

「顔か。――ならば、見せてやる」

顔に巻いたボロの結び目が解かれ、風に乗って飛んでいく。

アベル

「あるいは帝都まで行くだろう。――俺が座るべき、玉座のある都まで」

現れたのは、切れ長な瞳が印象的な黒髪の美青年だった。

年の頃は二十代の前半から半ば。目を奪われるほど整った顔立ち。

髪の乱れや頬の汚れさえ、持ち前の美貌を際立たせている。

だが最も特徴的なのは、その黒い瞳だった。

見るもの全てをひれ伏させるような、凄まじい覇気と威圧感を伴った眼光。

膝をついたまま、傷や疲労とは異なる理由で動けなくなる。

――魂が、目の前の人物に対して屈服しているのだと、わかった。

🪧 名乗り

「――ヴィンセント・アベルクス」

アベル「――ヴィンセント・アベルクス」

スバル

「……は?」

アベル

「俺の名だ。少なくとも、再び玉座に座るまではこの名を名乗る」

アベル

「もっとも、今後もアベルの方で通すのが賢明だとは思うがな」

口の端が歪む。ひどく凶悪な、野性味さえ感じさせる笑み。

その名前が意味するところは、まだわからないままに。

🔵 腕の中で暴れる

「――レム!」

ミゼルダ

「陣の制圧は完了しタ。こちらの被害は最低限デ……おお? アベル、お前の顔を初めて見たガ、ずいぶんと色男……」

ミゼルダ

「こほん……スバル、お前モ目覚めていてよかっタ」

それは死を目前とした生者へ手向ける、優しい微笑だった。

ミゼルダ

「ホーリィ、こっちに連れてこイ」

ホーリィ

「はいはい、わかったノ~!」

ホーリィ

「暴れちゃダメなノ~。ぶっ飛ばされたクーナがまだ起きなくて可哀想なノ~」

レム

「勝手なことを……っ! 離してください!」

スバル「――レム!」

体調の不良も、感じた畏怖も、眼下の戦場への拒絶感も、何もかも忘れて走り出す。

👋 頬を打つ音

「あなたが、これをやらせたんですか!」

レム

「あなたが、これをやらせたんですか! 最低です!」

バチンと強めの音が響く。結構な威力で、吹っ飛びそうになった。

でも、吹っ飛ばなかった。不満を訴えることもなかった。

――こうして生きていて、喋ってくれて、それだけでいい。

構わずその体を掻き抱く。奪うように胸へ迎え、彼女が怒りに顔を赤くする。

強烈な一撃を叩き込まんと拳を固めて――

レム

「……あなたは」

トドメを刺す前に、その満身創痍ぶりに気付いたようだった。

レム

「こんなの、死んでしまいますよ! すぐに治療しないと……」

ミゼルダ

「無駄ダ」

ミゼルダ

「スバルの傷は深ク、手当てしても治るものではなイ。今は精神力がもたせていたガ、それももうすぐ途切れるだろウ」

レム

「途切れるって、そんな、急にどうして……!」

ミゼルダ「――? 自分の女を取り戻したからに決まっていル」

🌸 心が赴くままに

「君に、幸せになってほしいんだよ」

レム

「どうして、あなたはそうまでするんですか? 私を、どうして……」

レム

「どうしてなんですか」

こうして問いかけを、以前にも受けたことがあったのを覚えている。

大事な子に、やっぱり同じように問いかけられた。

記憶が曖昧になりかけ、意識が落ちそうで、思い出せない。

だから、目の前の泣きそうな女の子に、心が赴くままに答えを返す。

スバル「――君に、幸せになってほしいんだよ」

スバル

「笑って、ほしい。……それだけで、俺はいいんだ」

たくさんの愛に囲まれて、大好きな人たちと同じ場所で、笑ってほしい。

花が咲いたみたいに、雲一つない青空みたいに、

遠く空の彼方で眩く輝いている星々のように、笑ってほしい。

ただ、笑ってほしいんだ。君に。

🕊️ 鎮魂の歌

「これって」

頭が下がり、首がそれを支えられなくなる。答えは、ない。

ミゼルダ

「――同胞ヲ、戦士の御霊の安らぎヲ」

背筋を正した唇から、敬意と、それを後押しする歌が紡がれる。

ホーリィホーリィが、ウタカタウタカタが、他の者たちが、合わせて歌い始める。

それは最後まで戦い、己の誇りを全うした戦士を送る、鎮魂の歌。

レム

「お願い、こんなところで、死なないで死なないで死なないで……」

ルイ

「あーうー?」

肩に、金色の髪の少女の手が乗せられる。

レム

「……これって」

じんわりと、温かな感覚が触れられた肩から流れ込んでくる。

膨れ上がるそれを抱えてはいられないと、本能が命じるままに吐き出す。

そしてそれは掌を伝い、命を手放す寸前の体へ流れ込んで――

アベル「――なるほど、治癒の魔法か。これは俺も想定せなんだ」

アベル

「貴様にも無意識のそれは、条件が整ったが故に発動している一種の奇跡だ。気を抜けば、発動が途切れて効果を失うぞ」

🌅 囁くように

「生きていなくちゃ、私が笑うところも見られませんよ」

これがどんな効能の熱なのか、彼女にもわからない。

ただ、消えていくだけだったはずの息が、わずかに力を取り戻している。

それだけで、今の彼女には十分だった。

レム

「……今は、まだ、あなたが何なのか私にはわかりません。でも」

幸せになってほしいと、そう言われた言葉は嘘でないように聞こえたから。

レム「生きていなくちゃ、私が笑うところも見られませんよ」

🏰 はるか西へ

「――俺の帰還を震えて待つがいい」

腕を組み、途切れかけた命を繋いだ男を見下ろして嘆息する。

アベル

「そのように器用なら、まずは折られた左手の指を治していようよ」

折られた指もそのままに、血と泥に塗れて彼女の奪還を願った男だ。

風説で語られる『英雄』としての片鱗など、微塵もない。

シュドラクの民との血盟は結ばれた。

陣の帝国兵たちは何も知らされていなかったようだが、それも予測の範疇。

まだ、この帝国の大半の人間が気付いていない。

――強国である神聖ヴォラキア帝国に訪れた、未曾有の政変の一大事に。

熱を孕んだ風の吹く丘の上、男ははるか西、帝都の方へと向き直る。

アベル

「宰相ベルステツ、寝返った九神将、そして頂を知らぬ愚かなる帝国兵共よ」

アベル「――俺の帰還を震えて待つがいい」

アベル

「せっかく生き延びたのだ。付き合ってもらうぞ、ナツキ・スバル。――我が手に、ヴォラキア帝国を取り戻すために」

第七章12『ヴォラキア帝国』終了。