第七章8
『名前』
陣地での日々は続く。知らないことを一つ知るたび、足下が少しずつ変わっていく。
🧹 いつかの客室で
「一番見てるのは自分でしょう?」
「ホント、スバルってすごーく頑張り屋さんよね」
🧊 パック
「かかったね、スバル。リアに素直に褒めさせたら、その裏を読もうとして深みに嵌まると考えたボクの思惑通りに」
「パック、お前……なんて迂遠な手口を!」
🧊 パック
「リアに似合いの子を、千年くらいかけて探すよ」
(╬゚Д゚)
「神話レベルのスケール!」
「でも、お仕事は頑張ってね。一生懸命やってれば、きっと誰かが見ててくれるから」
「誰かじゃなくて、エミリアたんに見ててほしいんだけど……」
「だから、自分をガッカリさせないためにも頑張らなくっちゃ」
📦 また散らかされて
掘った穴を、埋め戻される
昨日えっちらおっちら片付けたばかりの天幕が、荒れ放題になっていた。
立てかけた道具は倒され、包みはほどかれ、中身がばら撒かれている。
「性格悪い奴からの嫌がらせ……」
そして彼らの態度は、大抵の場合こちらに友好的とは言いづらい。
遠巻きにされたり、煙たがられるのには慣れていた。
高校生活のデビュー戦で躓いて以降、二年近くずっと浮いていたのだ。
積極的なイジメこそなかったが、苦い空気扱いならば百戦錬磨。
そう考えると、高校時代の同級生たちは気のいい善人揃いだった。
空気のように扱っても、わざわざ空気に嫌がらせはしなかったのだから。
🤔 昨日の話
瘴気がない、ということの意味
扱いかねる理由が、一個増えた。
以前、彼女は魔女教徒相手にもその言葉を使っていた。
「魔女教の関係者……それも、大罪司教が瘴気と無関係なんてありえねぇ」
「あおー?」
とぼけた顔と声で唸っているだけだった。
👢 足を引っかけられて
「ジャマルさん、だ」
天幕を出たところで何かに足を引っかけ、盛大にすっ転んだ。
「よお、腰抜け。みっともなく地面に這いつくばってどうした?」
「ジャマルって、そう呼ばれて……がぁっ!?」
「ジャマルさん、だ。連れの女共々、躾のなってやがらねえ奴だな、オイ」
添え木と包帯を巻いた指を踏みつけ、じりじりと踵で躙ってくる。
「あーうー!」
「おい、子どもだぞ!」
「ガキだからなんだってんだ?」
横っ面を蹴り飛ばされ、口内が切れて血が溢れる。
「てめえがあのナイフを持ち歩いてなきゃ、八つ裂きにしてそれでしまいだった」
――狙いは、痛めつけることではない。挑発して反撃させ、無礼討ちにすることだ。
だから、耐える。指が全部折られても、乗らなければこちらの勝ちだ。
🎖️ 将という階級
九神将
「ジャマルか? 俺とは軍人になった同期で、出世頭だよ」
帝国軍には『将』と呼ばれる階級がある。
兵卒、上等兵、三将、二将と上がり――
「一将となると、帝国にも九人しかいない別格。皇帝直属の武人で、『九神将』って呼ばれてる」
「才能ってことか」
「だから、俺たちみたいな凡人は三将あたりを目指すのさ」
自分本位で共感性が低い。わかりやすい、無能な上官タイプだ。
🍽️ 昼食の席
「体が覚えてたりとかは?」
「――その臭い、またケガを増やしたんですか?」
「昼までどうしてた? なんか苦労はなかったか?」
「私がお手伝いしたことなんて、ちょっとした炊事のことだけです」
「教わりながら……こう、体が覚えてたりとかは?」
「……それを期待していなかったと言えば、嘘になります」
「あれこれと試してみれば、何かしら手に馴染むものがあるかもしれないと思っていました。でも、そんなの都合が良すぎましたね」
自分の手を見下ろし、浅慮を恥じるように呟く。
だが、その期待を浅慮と、いったい誰が罵れるだろうか。
「あなたは、以前の私を知っている。それはわかります。疑うまでもない」
散々否定的だった彼女が、初めて見せたに等しい歩み寄りだった。
「ただ、何度『レム』と呼びかけられても、それが私の名前であると受け入れることができません」
🤝 交渉が目的
「できれば戦いたくない」
「トッドさんたちは、その『シュドラクの民』を見つけて、どうする気なんだ?」
「いや、できれば戦いたくないってのが『将』たちの考えみたいだ」
「『シュドラクの民』ってのはなかなか強力な部族らしくてな。戦いになったら苦戦は必至、今回も交渉が目的らしい」
「森の部族と、何の交渉を?」
「たぶん帝都とか、ひいては皇帝閣下への臣従を誓えって話じゃないか?」
🐍 何気ない一言
「今、魔獣って言ったのか?」
「森の中に何があるかわからないし、でかい魔獣もうろついてるような場所だ」
「今、魔獣って言ったのか? あの森に魔獣がいるって?」
「いや、えっと、そう言ったけど……俺、なんか変なこと言った?」
「魔獣なんて、そうそう出くわすもんじゃない。魔獣大国のルグニカならともかく、王国との国境線でもないところなんだぞ」
「どんな魔獣だった? 姿かたちは?」
「へ、蛇だ。でかい蛇。十メートル近くある、どでかい奴が一匹」
「だが、嘘をついてる風でもない。事情が変わった!」
二人の頭をぐいぐいと乱暴に撫でて、彼は仲間を集めに走っていった。
「帝国じゃ、魔獣が珍しい……」
召喚以来、出来事の大部分に魔獣の存在があった。
だから、珍しいなんて発想を、そもそも持ちようがなかった。
🪧 名前を
「相手の名前を聞こうとしない人を」
「あの、トッドさんでしたか。……私は、あまりいい印象を抱いていません」
「は? なんでだよ。これに恩を感じないのはいくら何でも」
「恩を感じないとは言いません。感謝はもちろんしています。ただ……」
言われて振り返る。確かにそうだ。
「た、たまたまじゃないか? レムだって、俺のことを名前で呼んじゃ――」
「――ナツキ・スバルでしょう。知っていて呼ばないのと、最初から知ろうとしていないのとでは意味が違うと思います」
帝国の常識かもしれない。だが、無知な自分にはそれを語れない。
☀️ 翌朝
「ナツキ・スバル、それが俺の名前だ」
「――おい、起きろ起きろ。いつまで寝てんだ、お前さんよ」
「――ナツキ・スバル」
「うん?」
「ナツキ・スバル、それが俺の名前だ」
「ん……あー、もしかして、お前さんって呼ばれるの気にしてたのか? はは、そりゃ考えすぎだ。けど、ナツキ・スバルな、覚えた覚えた」
調子が変わらないのを見て、いくらか安堵を覚える。
昨日の懸念は考えすぎで、もやもやも杞憂だったようだ。
🎉 方針が変わった
「さくっと作戦を切り上げることになったんだよ」
「昨日のお前さんの話のおかげで、『将』たちの方針が変わったんだ」
「方針が変わった……って、森の攻略の?」
「未知の森の開拓に加えて、魔獣まで生息してるとなると、話がだいぶ違ってくるからな」
そこで言葉を切り、にんまりと満面の笑みを浮かべる。
「さくっと? じゃあ、もしかしてトッドさん、婚約者のとこ戻れるってことか?」
「はは、そうなんだよ!」
年単位の出兵計画が変更され、地元に帰れる。手を合わせ、二人で踊る。
🔥 変な臭い
森が、燃えている
「――? なんだか、変な臭いがしませんか?」
「はい。あなたの体臭とは別に」
「距離があるから大丈夫だと思ったんだが、鼻がいいとわかるよな」
天幕の入口が開かれ、外へ手招きされる。
それは、朦々とすさまじい勢いで噴き上がる黒煙と、強烈な焦げ臭い香り。
そして見渡す限り、右も左も埋め尽くしていた大密林が――
真っ赤な炎に包まれ、燃え盛っている光景だった。
「これは……」
二人は棒立ちになり、焼き尽くされる密林を、終わっていく世界を見つめていた。
🫱 背中を叩かれて
「大助かりさ」
「魔獣が潜んでるとなると、いったいどれだけこっち側に被害が出るか知れたもんじゃない。そう主張したら、指揮してるズィクル二将もわかってくれたよ」
気安く背中を叩かれる。肺が震え、喉が震え、声も震えた。
「な、なんで……?」
「だって、森の『シュドラクの民』とは戦いたくないって、言ってたよ、な?」
「ああ、戦いたくなかったよ。こっちに犠牲がいくら出るかわからない。俺も死ぬかもしれなかったしな」
「けど、『将』の説得材料ができたおかげで問題は片付けられた。『シュドラクの民』も、皇帝閣下に敵対できなくなる」
「俺も早く婚約者のところに帰れるしな。いやいや、お前さんは拾い物だったよ」
「やれやれ、しっかりしてくれ。――嬢ちゃんを不安がらせるなよ」
本当に善意の笑みを残して、その背が去っていった。
🚫 差し出した手
「触らないで、ください」
黙っていようと、混乱に苛まれていようと、燃え盛る森の光景は変わらない。
炎はあの地で生きる全てを焼き尽くす。
大蛇の魔獣も、森で会った覆面の男も、つけ狙った狩人も例外ではない。
――何もかも、灰燼と帰す。
見上げるその表情に、恐怖と拒絶感が溢れ出した。
「あなたが、悪いわけじゃない……それは、わかってます。でも」
振り払うでも、へし折るでもなく、押しのけられた。
彼女はわかってくれている。しかし、それがもたらす慰めは些少だった。
🎯 背中に触れたもの
――矢羽根
背中に当たった小さな感触に気付いて、声を漏らす。
振り向いても、触れたものや人は見当たらない。
ただ、振り向いた瞬間、視界の端を何かが掠めた。
「うーっ!!」
恐怖でも拒絶でもない、純粋な何故という驚愕。
見開かれた青い瞳が見つめているのは――背中。
――矢羽根。
矢羽根には、矢本体が付属している。
それが背中で揺れているということは――
放たれた矢が、命中しているということに他ならない。
☠️ 灼熱
煤で汚れた、小さな影
ぐらっと頭が揺れて、その場にひっくり返る。
「きゃああああ――っ!」
彼女の普通の悲鳴を初めて聞いたと、場違いな感想が頭を流れていく。
「誰か! 誰かきてください! ……こんな、こんなの、大丈夫ですよ! だって、こんな浅い、矢傷くらいで……っ」
ああ、優しいなと思った。
瘴気のせいで信じられなくても、あんな燃える世界を生み出しても、
それでも目の前で倒れていたら、こうして声を上げてくれる。
「――げっ、ぶ、うえぇっ」
「――っ、まさか、毒?」
矢の威力で殺されるわけじゃない。塗られた毒が、蝕んでいるのだ。
血走った目を見開いて、その顔を見ようとして――気付く。
テントから三十メートルほど。走れば十秒とかからない位置。
こちらを睨みつけている、小さな、小さな人影。
目つきが悪いのではない。睨んでいるのだ。
髪や顔を煤で汚し、憎悪に濁った瞳で、半弓を握った少女。
――憎まれるのも、殺したいと思われるのも、当然だった。
「――ダメ! 待って! 待ってください。待って……」
待ってやりたい。立ち止まってやりたい。手を引いて、笑いかけてやりたい。
その何一つ、できないまま。
第七章8『名前』終了。
エミリア
スバルが、銀鈴の声に小鼻を膨らませる。
トッド以外の人間とも接点はある。
レムが告げた――
ルイから、魔女の残り香を感じないという証言だ。
ジャマル