狼の国を読む WEB版・初見向け解説
20話収録

第七章7

『男はつらかったよ』

捕虜としての数日が始まる。傷の手当てを受けながら、この国の常識を一つずつ知っていく。

📄 いつかの執務室

「私はね、治癒魔法が使えないんだよ」

資料を片していて、紙で指を切った。

ロズワール

「おや、スバルくん、どーぉうしたね? 紙で指を?」

スバル

「これ、ちょちょいっと治せたりする?」

ロズワール

「いやいや、そうじゃーぁないさ。――私はね、治癒魔法が使えないんだよ」

スバル

「そうなの? てっきり、何でもできる万能魔法使いだと思ってた」

ロズワール

「いや、治癒魔法以外は大体使えるけどね」

スバル

(╬゚Д゚)

「ガチの一個だけの穴!?」

ロズワール

「治癒魔法の有無は戦いを……ある種、戦場を大きく変えると言ってもいい。だから案外貴重な才能でね」

使い手は貴重で、専門の治療院に師弟制度が存在するほどだという。

🃏「治癒魔法があることに浸かりすぎていると、いざケガをしたときに耐えることを忘れてしまう」

💊 添え木と包帯

「痛いぞ痛いぞー」

トッド

「ほれ、添え木でも噛んどけ。痛いぞ痛いぞー」

赤紫に変色した三本の指に、つんと臭う薬が塗られる。

添え木を当て、包帯でぐるぐると固定して手当ては完了した。

トッド

「あとは最後にこの水薬だ。多少なり痛みも和らぐだろうさ」

中身はドロッとした緑色の粘液。覚悟を決めて飲み干す。

スバル

「おぶぇっ! まずっ! 重たい液体が喉に絡みつく……!」

トッド

「軍でも重用されてる貴重品だ。傷の治りが早くなる」

森でもらったナイフのおかげで、素性を高貴なものと思い込んでくれている。

だからこそ、騙しているのが申し訳ない気分でもあった。

🔍 確かめたかったこと

治癒魔法は、珍しい

スバル

「しかし、あれだな。こんなとき、治癒魔法でもあればバーッと傷も治せるのに」

トッド

「お? これまた贅沢なことを言うもんだ。治癒魔法なんてそうお目にかかれるもんか」

治療用の天幕には薬草や水薬の瓶が並び、医学的な道具ばかりが揃っていた。

手当ても、魔法ではなく薬草と添え木という手段だった。

スバル「治癒魔法は、珍しい」

トッド

「聞いた話じゃ、帝都の方には使える術師が囲い込まれてるとか。一般人には遠い世界の話だよ」

トッド

「むしろ、お前さんの口から治癒魔法なんて言葉が出た方が驚いた。俺からすれば、選択肢にも上がらないような話だぞ?」

身近でないものは、そもそも思考の端にすら存在を主張できない。

🕯️ 静かな声で

「治癒魔法なんて残酷なもん」

トッド

「俺は治癒魔法なんて残酷なもん、身の回りになくてよかったと思うからさ」

スバル

「残酷って……なんで? むしろ逆じゃないのか?」

トッド

「傷が治るってことは、死なないってことだ。負傷して引っ込められることもない」

トッド「傷を治して、また延々と戦わされる。傷が癒えるってのはそういうことだ」

トッド

「最初に治癒魔法なんてものを作り出した奴は、いったいどれだけ戦いが好きだったんだ?」

偏った考え方だとは思った。

治癒魔法の場は戦いだけではない。事故や病気の人間を救う役目もある。

だが、一面的には事実でもある。

戦場で治療し、再び戦いへ駆り立てる。その側面を否定はできない。

📦 黒い天幕の群れ

「整理整頓が得意なお前さんの出番ってわけだ」

トッド

「さっそくだが、雑用を頼んでいいか?」

スバル

「何でも言いつけてくれ。靴を食う以外の仕事ならどんとこいだ」

トッド

「陣地用の備蓄品だ。そこで、整理整頓が得意なお前さんの出番ってわけだ」

スバル

「……俺、整理整頓が得意だなんて言ったっけ?」

トッド

「いんや? けど、得意だといいなぁと思ったんだよ」

スバル「……いい性格してるな、トッドさん」

天幕は二十前後。全部が備蓄品で、しかも雑多に積まれているなら重労働だ。

ルイ

「うー!」

右腕にぶら下がられ、スバルスバルは憎々しげに顔をしかめた。

⛺ 三人だけの天幕

「出迎えていません」

重労働を終えて戻ると、床に横座りしたレムレムが出迎えてくれた。

レム

「出迎えていません」

スバル

「いや、心を読むなよ。……でも、牢から出してもらえたんだな?」

レム

「――。少なくとも、ここの方々に私への敵意はないようでしたので」

気まずげに伏せられた目は、川べりでの遭遇戦への罪悪感だろう。

レム

「どうして私たちで同じ天幕なんですか。もう少し配慮してくれても……」

腰骨のあたりを強く掴まれ、腰椎を軋ませられる。

ルイ

「うー!」

その手にルイルイが体ごと圧し掛かり、折檻が中断された。

何故か彼女に甘いレムレムは、諦めたようにその頭を膝へ引き寄せる。

スバル「ちっ」

レム

「この子はこんなにあなたに懐いているのに、そこまで非情になれる理由がわかりません」

🍢 焼き串

「私が先に食べるんですか」

顔の上に差し出されたのは、焼き串だった。

レム

「食事だそうです。……少しずつでも、移動の練習をしなくてはいけませんから」

空いた手で、自分の足をさする。

記憶もなく、足も自由にならない。不安なのは、当事者である彼女自身だ。

スバル

「えっと、レムはもう食べたのか?」

レム

「は? なんでこの子が食べてないのに、私が先に食べるんですか。そんな身勝手な真似ができるはずないでしょう」

ルイルイは雛が親鳥から餌をついばむみたいに、ちまちまと肉を齧っている。

レム「ふふ」

その光景を、レムレムは微笑ましげに見ていた。

💧 気付かないうちに

「涙が、流れています」

レム

「……あの、涙が」

スバル

「涙?」

レム

「……涙が、流れています。気付いていないんですか?」

頬に触れると、指先に熱い雫が当たった。

状況は何も落ち着いていない。

仲間とははぐれ、連絡の手段もなく、素性がバレれば危険な土地。

同行者にはこの世の邪悪を極めた大罪司教。

楽天的になれる理由なんて、一個もない。一個もないのに――

スバル「……お前と、こうして喋って、飯を食ってる。それが、嬉しかったんだ」

スバル

「ずっと、お前とまたこうして、何でもない時間を過ごしたかったんだ」

🕊️ 静かな返事

「気持ち悪いとまでは」

レム

「……私は、あなたが何を言っているのかわかりません」

当然の反応だと、自分の恥ずかしさを噛みしめる。

知らない男が、好感の持てない臭いを漂わせてべそをかいているのだ。

また信頼を損ねた。それも、取り返しのつかない形で。

レム

「でも、あなたが涙を流すのを、笑おうとは思いません」

レム「不気味とは……思いますが、気持ち悪いとまでは」

スバル

「――え?」

こちらに目を向けないまま、言葉を選ぶように唇が震えていた。

レム

「……以上です。早く食べてください。今日は、もう疲れました」

レム

「塩辛いのは、あなたの涙のせいですよ。……私は、あなたの体臭のせいで食事がおいしく感じられません。不公平です」

出ていけとも、一緒に食べたくないとも言わないでくれた。

ならば、こちらから別案を考える他にない。

❓ 不公平の話なら

「この子からあなたと同じ臭いなんてしていませんよ」

スバル

「不公平って話をするんなら、俺からも言いたいことはあるぞ」

スバル

「そいつだって似たような臭いがしてるだろ。それは無視するのかよ」

『死に戻り』を重ねるたび濃くなる、魔女の残り香。

魔女因子に関連したものなら、大罪司教であるルイルイからも漂っているはずだ。

レム

「――? 何を言ってるんですか。あなたとこの子を一緒にしないであげてください」

スバル

「……へ?」

レム「この子からあなたと同じ臭いなんてしていませんよ」

嘘でもなければ、謀ろうとしているわけでもなさそうだった。

彼女は本当に、ルイルイから瘴気を感じていない。

スバル

「まさか、瘴気を偽装できるのか? いや、でも、何のために?」

そもそも、そんなものを隠すという発想が魔女教徒にあると思えない。

奴らは、この世界を我が物顔で蹂躙する大逆の使徒たちだ。それなのに――

何かひどく不気味なことが進行しているような、おぞましい感覚だけがあった。

🌙 焚火の明かり

一個ずつ、いい方向へ

器を片付けるために天幕を出る。

夜闇の中、陣地のあちこちに焚火の明かりが見えた。

夜を徹した見張りに立つ者もいるのだろう。

スバル

「……早く、ここを離れたいな」

トッドトッドは気のいい男だが、それでも戦場の空気には慣れそうにない。

スバル

「……あれ、指が痛くねぇ。まさか、薬がもう効いたのか?」

まだ違和感は残る。だが、じんと熱の通い始めた感覚がある。

左手が、しっかりと仕事を果たそうとし始めている証拠だった。

考えることは多い。多いが、一個ずつ。

この左手の指のように、一個ずつ、いい方向へ進めてゆけばいい。

👁️ 見ている影

「浮かれてやがる。くだらねえ」

天幕を離れ、ゆっくりと歩いていく背を眺める影が一つ。

片目を眼帯で覆った男が、残された目を細めている。

ゆるゆると歩くその背に、舌打ちが落とされた。

ジャマル「浮かれてやがる。くだらねえ」

第七章7『男はつらかったよ』終了。