狼の国を読む WEB版・初見向け解説
20話収録

第七章5

『男はつらいよ』

狩人と大蛇。どちらが勝っても、追ってくる。逃げ道の先にあったのは、十メートル下を流れる大河だった。

二階の窓から水をかけてしまい、慌てて謝るペトラ

🌷 いつかの庭で

「弱音なんて吐けません」

頭の上から降ってきた水を、盛大に浴びる。

ペトラ

「きゃっ! スバル様、ごめんなさいっ!」

二階の窓から捨てた掃除の水が、運悪く土いじり中のスバルスバルを直撃した。

水場では、庭石に腰を下ろした🍃 リューズが待っていた。

幼い容姿と、老成した喋り方。そのアンバランスさが彼女の特徴だ。

スバル

「リューズさんは、ガーフィールとフレデリカと別々に暮らしてるの、寂しくないか?」

🍃 リューズ

「仕方のない話じゃよ。儂はもちろん、他の複製体……儂の姉妹たちは、この屋敷で暮らすには問題が多い」

役に立つとか立たないとか、そういう話はしていない。

そう叫びたい感情を、スバルスバルは呑み込んだ。

スバル

「俺は、自分がしてもらったことは、周りもしてもらっていいと思うんだよな……」

🍃 リューズ

「スー坊は優しいだけでなく、甘くて青いんじゃな」

スバル

「ペトラもお父さんお母さんと離れ離れだよな。ホームシックとか、ないのか?」

ペトラ

「寂しいって思うことはあるよ? でも、わたしがやりたいって決めたことだし、その真っ最中だもん」

🌷「弱音なんて吐けません」

自分で決めたことを、成し遂げんとしている真っ最中。

だったら苦しい中でも、笑って顔を上げなくては。

矢に射抜かれた大蛇が射手のほうへ這い始める

🩸 走馬灯が途切れて

「俺を助けた……!?」

頭からどす黒い血を浴びて、意識が引き戻される。

大蛇の太い胴体を穿ったのは、さんざん自分たちを苦しめた狩人の矢だった。

スバル

「なんで、狩人の矢が大蛇を……!?」

誤射かとも思ったが、胴体のど真ん中を捉えている。その可能性は低い。

スバル「俺を助けた……!?」

意味がわからない。それ以外の答えも湧いてこない。

胴を射抜かれた大蛇が、空を軋らせるような鳴き声を上げる。

そして逃げる背ではなく、矢の飛んできた方へ――射手へ向かって這い始めた。

体長十メートルの巨体が、大地を滑るように移動していく。

木々の彼方で、人と魔獣の壮絶な殺し合いが始まった。

レムを抱え上げ、ルイを背に括りつけて走り出すスバル

🏃 今のうちに

「今は俺と狩人と蛇と、どれが一番マシか考えろ!」

スバル

「レム、手ぇ貸せ! 今のうちに逃げるぞ!」

差し伸べた手を、レムレムは見たあとで首を横に振り、自力で縁に手をかけた。

それならそれでと、スバルスバルは鞭でルイルイの体を背中に括りつける。

放り出せば、また一悶着が生まれる。それは避けたい。

そして、這い上がったレムレムを強引に抱き上げた。

レム

「ちょっ」

スバル

「今は俺と狩人と蛇と、どれが一番マシか考えろ!」

レム

「……言葉が通じれば、蛇です」

スバル「通じないから、次点の俺で我慢してくれ!」

走りながら別方向へ枝を投げ、痕跡を散らす二人

🌿 痕跡を散らす

初めて、噛み合う

スバル

「なるべく、足跡がつかない道を選んで、痕跡を消して、あとは……」

レム

「別の方角に痕跡を残す……ですね!」

言いながら、当たりかけた枝を折って遠くへ放り投げ、別方向の木に傷を付ける。

初めて、二人の考えが噛み合った。

走りながら、場違いな懐かしさが脳裏をよぎる。

以前にも、魔獣に追われて森を走ったことがあった。

ただしあのとき抱えていたのは、レムレムではなくラムラムだった。

レム

「息が上がっています。このままだと追いつかれますよ」

スバル

「わかってるよ! ったく、姉妹揃って……容赦がねぇんだから……!」

十メートル下を大河が流れる崖の縁に立ち尽くす

🌊 水の音

十メートル下を、大河が流れている

レム

「水の音が聞こえます。流れる……川? 痕跡が消せるんじゃありませんか?」

自分の心音と呼吸音がうるさくて、スバルスバルには聞こえていなかった。

だが、この場で彼女の聴覚を疑う理由がない。

木々を追い越し、草むらを飛び越え、道が開けた瞬間――

スバル

「――川! ……だ、け、ど?」

聞こえてきたのは、十メートル近い崖下を流れる大河の音だった。

ちょっと渡って痕跡を消せれば、なんて考えを嘲笑うように。

レム

「これは、いくら何でも……」

背後の森の遠くで、凄まじい咆哮が空へ轟いた。

勝利にせよ敗北にせよ、生き残った方がこちらへやってくる。

置いていってくださいと訴えるレムと、断るスバル

🙅 置いていけ

「――私を、置いていってください」

レム

「――私を、置いていってください」

スバル

「な、に?」

レム

「私のせいで、余計な回り道をさせました。何とか、相手の足止めをしてみますから……」

スバル

「ば、馬鹿なこと言うな! お前を置いてくなんて……」

レム

「じゃあ、どうするんですか!? 足の動かない女と子どもを連れて、もう息も切らして膝も震えているあなたが、これ以上どうするって!」

どうすると問われ、すぐに代案が出せるほど賢くはない。

だが、賢くないからこそ、賢さの必要ない答えならすぐに出せた。

スバル「――いいや、ダメだ。お前を置いてったりしない」

スバル

「責任感発揮するとこ間違ってんだよ! 誰が、お前を置いていけるもんか!」

スバル

「お前が死ぬぐらいなら、俺が死んだ方がマシなんだ。どうしたらわかってくれんだよ!」

レムを抱えて崖を蹴り、大河へ飛び込むスバル

🪂 飛ぶしかない

「――俺は、お前の英雄だから」

スバル

「――飛ぶしかない」

レム

「な……ま、待ってください! それこそ無謀です!」

高さは十メートル。まともに動けない二人を、怪我人がフォローする。

荒々しい流れに耐えて対岸へ辿り着く。自殺行為に思えて当然だった。

スバル

「だけど、自殺じゃない。仮にそうでも、死ぬときは一緒だぜ」

レム

「絶対嫌です!」

笑みが、豪快な平手に打たれた。

スバル

「わかった。お前がそう言うから、死なない」

スバル「お前の望みは俺が叶える。――俺は、お前の英雄だから」

彼女の記憶が疼いたわけではない。ただ驚いただけだろう。

でも、それでいい。

薄い青の瞳に映る、情けなさを虚勢で隠した男に魔法をかけたかっただけだ。

レム

「――死んだら許しません!」

ああ、それじゃあ死ねないなと苦笑いして、強く崖を蹴った。

濁流に呑まれ、水中で回転するスバル

💧 水の中で

みんな、が――

衝撃と水柱。猛烈な勢いに全身が呑まれ、ぐるぐると回転する。

かろうじて足先から飛び込めたおかげで、被害は最小限で済んだ。

それでも、体力ゲージはすでに真っ赤だった。

胸の内には愛情、背中には憎悪の対象。

縛り付けた鞭も、強く抱いた腕も外れていない。

水を掻いていると、余計な考えが頭の中を蠢き回る。

エミリアエミリアは、ベアトリスベアトリスは、ラムラムは無事だろうか。

指を折られたとき、よく泣き叫ばなかった。偉い。

レムレムの前でカッコ悪いことはしたくない。

プリステラに早く戻って、困ってる人たちを助けて、王選が、明日が――

みんな、が――

岸に引き上げたあと、力尽きて倒れ込むスバル

🏞️ 岸へ

「れ、むを……」

伸ばした手が枝を掴む。折れた三本の指が悲鳴を上げたが、気にならない。

全身が冷え切り、感覚が遠く鈍い。

咳き込み、腹の中を満たしている水を盛大に吐き出す。

右腕の重みを抱き寄せ、水面に顔を出させる。

岸へ引き上げ、口元に耳を寄せる。――反応がない。

胸を押し込み、心肺蘇生を行う。

やがて「げほっ」と水が吐き出された。

背中の重石を下ろす。最初から意識がなかったのが幸いしたのか、弱々しく呼吸していた。

つまりは全員が、無事に――

ぐらりと頭が揺れて、その場に倒れ込む。

茂みに隠れなくてはと思うのに、体が全く言うことを聞かない。

スバル「れ、むを……」

目隠しをされ、後ろ手に縛られて蹴られるスバル

👞 口の中に

「ぜえはあうるっせえぞ、てめえ」

冷たい暗闇の底から、意識が引き上げられる。

溺れていたみたいに酸素を求め、大きく口を開け――

⚔️ 荒っぽい男

「――ぜえはあうるっせえぞ、てめえ」

開けた大口に、無理やり何かがねじ込まれた。

土と草の味。大きく固い歯ごたえ。――靴だ。

スバル

「おげっ! ぶえっ! な、何が……ごえっ!」

吐き出した直後、爪先で鳩尾を蹴飛ばされる。

顔には布が巻かれ、何も見えない。

腕は後ろ手に縛られ、足も縛られている。

目も見えず、意味もわからず、いきなり暴力を振るわれて。

目隠しを外され、帝国兵の陣地を見せられるスバル

⛺ 目隠しの向こう

「お前さんは俺たちの捕虜になったんだよ」

🪓 人の好さそうな男

「――まあまあ、落ち着けって! 何もわかんないんだよ! 仕方ないって!

あとから入った方が説得し、荒々しい気配が遠ざかっていく。

🪓 人の好さそうな男

「いきなり悪かったな。とりあえず目隠しを外すぞ? 手足の縄は外せないから勘弁な」

取り戻された視界に広がっていたのは――

いくつもの天幕と焚火。忙しなく行き交う、刀剣や甲冑を纏った男たち。

スバル

(・・・・・・)

「……大河ドラマで、こんなの見たことある」

合戦が始まる前の、準備に追われる陣地。まるでその再現のような――

否、そうではない。

🪓 人の好さそうな男

「ちょうど、水汲みにいったところで見つかってなぁ」

🪓「悪いが、お前さんは俺たちの捕虜になったんだよ」

第七章5『男はつらいよ』終了。