狼の国を読む WEB版・初見向け解説
20話収録

第七章1

『洗礼』

プレアデス監視塔。噴煙が晴れたそこに、二人の姿はなかった。

🌫️ 噴煙が晴れて

空っぽになった『緑部屋』

ラムラムは、滅多にない無力感を味わわされていた。

薄紅の瞳を凝らしても、動くものは何も見つからない。

黒いものも、青い可愛らしいものも。

監視塔の四層はひどい有様だった。

通路は崩れ、天井も床も砕かれている。

壁の穴の向こうには砂海の空が見え、渇いた風が吹き込む。

中でも『緑部屋』は、草と蔦を根こそぎにされ原形をとどめていない。

エミリア

「ラム……スバルと、レムはどこにいったの? 無事、なのよね?

その痛いぐらいの沈黙こそが、問いの答えだった。

🖤 何が起きたのか

指向性のある、シャマク

無事だった面々が集まり、アナスタシアアナスタシアが場を仕切る。

塔を襲った黒い影は、🐉 ボルカニカの息吹が薙ぎ払った。

それがなければ、全員ただでは済まなかった。

ユリウス

「あの影は陰魔法……少なくとも、陰属性の代物だった」

ベアトリス

「あれは陰属性の塊だったかしら。それも、指向性のあるシャマクに近いのよ」

シャマクの特性は『分離』にある。

低級なら肉体と意識を、上級なら空間と空間を分かつ。

アナスタシア

「その説明やと、ナツキくんたちバラバラになってへん?」

ベアトリス

「あの影はスバルたちを切り刻むためのものじゃなかったのよ。でも、取り込んでどこかへ運ぼうとはしてたかしら」

――どこかへ、運ぼうとしていた。

💠 生きている根拠

それで死んではいません。確実に

ラム

「それで死んではいません。確実に」

そっと自分の額――角があったと思しきあたりに触れる。

双子の共感覚。それが、確信の根拠だった。

ラム

「レムは生きています。……バルスはともかく」

ベアトリス

(╬゚Д゚)

「スバルだって大丈夫かしら! そっちはベティーが保証するのよ!」

スバルスバルは契約の繋がりで、レムレムは姉妹の共感覚で。

二人の生存は、別々の角度から確かめられた。

🧭 遠く、南へ

「――南、なのよ」

エミリア

「お願い、二人とも。スバルとレムはどこにいるの? 教えて」

ベアトリスベアトリスとラムラムが顔を見合わせる。

数秒の沈黙のあと――

ベアトリス

「――南、なのよ」

ラム

「ラムも、同じ方向だと感じます。位置まではわかりませんが、かなり遠いと」

現在地は、世界図で最も東のアウグリア砂丘。

そこから南となれば、ピックタットやフランダースが候補になる。

だが、二人の顔色はそれで説明がつかないほど悪い。

🦂「――南の、ヴォラキア帝国までいっちゃったってことお?

🚧 閉ざされた国境

行き来は、禁じられている

ヴォラキア帝国とルグニカ王国は、王選の期間中は不戦協定を結んでいる。

エミリア

「それなら今は平気なの? スバルたちを探しにいっても……」

ユリウス

「――いえ、それがそうもいきません」

帝国は数ヶ月前から、王国との行き来を一時的に禁じている。

正面からの突破は不可能。裏道を探るには時間とツテが要る。

焦るだろうと思われたエミリアエミリアは、しかし静かに顔を上げた。

エミリア

「ここでパタパタ慌ててても、スバルたちは助けてあげられない。……冷静にならなきゃ」

瞳は揺れ、声は微かに震えている。それでも努めて自制していた。

エミリア「スバルはきっとどんな無茶でもしてレムのことを守るわ」

⚠️ 伏せられていたこと

三人目の『暴食』

🦂 メィリィ

「そういえばなんだけどお、ラムお姉さんはあの話はしたのお?」

ラム

「――。まだよ」

ラムラムは逡巡のあと、口を開く。

ラム

「影に呑まれて帝国へ飛ばされたのは、バルスとレムの二人だけではないかもしれません」

🦂 メィリィ

「あの影がバーッていっぱいくる前、女の子が急に出てきたのよお」

🦂「お兄さんは三人目の『暴食』とかって言ってたわあ」

大穴から外を覗き込み、エミリアエミリアが胸の前で手を組む。

エミリア「お願い、スバル。――どうか、レムと一緒にへっちゃらでいて」

🌾 遠い彼の地で

「俺は、お前の英雄だ」

同じ時刻。風に撫ぜられる草原の上。

一人の少年が、一人の少女を抱き起こしていた。

黒い髪。鋭い三白眼。平時には人を殺していそうだと言われる目つき。

その目尻が、今は柔らかく緩んでいる。

涙をこぼさないよう、スバルスバルは必死だった。

この瞬間を、どれほど待ち望んだことか。

レム

「……えい、ゆう」

スバル

「そうだ。そうだよ、レム。俺は、お前の英雄だ。ずっと、お前を……」

長い長い眠りから、彼女は目覚めたばかりだった。

💢 ひっくり返る

「レムって誰のことですか?」

何かを伝えようとする唇に、スバルスバルは耳を寄せる。

その途端、頭と顎が伸びてきた手に捕まえられた。

体勢が入れ替わる。馬乗りになったレムレムが見下ろしている。

レム

「いったい、あなたの目的はなんですか。私に何をするつもりなんです!」

スバル

(;゚Д゚)

レム

「英雄なんて、いきなり……それに、レムって誰のことですか? 答えてください!」

両肩を膝で押さえられ、首に手がかかる。

拘束術の技量は卓越していた。まるで自由を取り戻せない。

答える猶予さえ、与えられない。

🍽️ 横合いから

「あー、うー!!」

不意に、横から人影が飛びかかった。

レムレムの体が突き飛ばされ、草の上を転がっていく。

スバル

(;´Д`)

咳き込みながら見た先にいたのは――

歯を剥き出し、顔を赤くして唸る金髪の少女。

大罪司教、ルイルイ・アルネブ。

スバル

「お前! レムから離れろ、この野郎!」

羽交い絞めにして引き剥がす。腕の中で暴れるが、反撃らしい反撃はない。

唸って身をよじるだけだった。

🦵 立てない

「……足が、言うことを」

警戒しながら、レムレムがゆっくり立ち上がろうとする。

だが、すとんと膝から力が抜けた。

レム

「……足が、言うことを」

スバル

「まさか、立てないのか?」

長く寝ていたなら、弱るのは全身のはず。

それなのに、不調は足腰にだけ現れている。

スバルスバルの脳裏をよぎったのは、『緑部屋』で聞かされた話だった。

ラムラムが切り札として、レムレムと負担を分け合ったこと。

その影響がどう出るかは、わからないと言われていた。

スバル「……俺のせいだ」

❓ 誰なのか

「私は誰なんですか!?」

レム

「そもそも! あなたは誰で、私は誰なんですか!?」

自由にならない足を強く叩いて、激情の渦巻く瞳で睨みつける。

――私は誰なのか。

あなたは誰、はまだマシだ。

だが自分が誰なのかという問いは、再会を待望していたスバルスバルに深く刺さった。

自分のことを『レム』ではなく『私』と呼んでいた時点で、予感はあったのだ。

『名前』と『記憶』を奪われた被害者。彼女は、記憶をなくして目覚めた。

スバル

「レムだよ。それが、お前の名前だ」

困惑したまま、彼女は「レム」と繰り返す。

それが自分の名前であると、己に馴染ませるように。

🎒 背負って

「いてくれるだけでいい」

スバル

「すぐの助けは期待できない。俺たちはどうにかして、ここから助かるために行動しなくちゃいけないんだ」

レム

「私に何をしろと? 足もろくに動かない、私に」

スバル

「……いてくれるだけでいい。お前が呼吸して、喋って、その目で周りを見ててくれるなら、それだけでいいんだ」

掛け値なしの本音だった。

方針は水源の確保。ベースキャンプを決めて、そこから範囲を広げる。

パルクールや鞭の稽古の過程で叩き込まれた、クリンドの教えが効いていた。

しゃがんで背中を向ける。

細い腕が肩の上を通り、胸の前で結ばれた。

背負いながら思ったのは、軽い、ということだった。

🥀 置いていく

「あいつは置いていく」

レム

「その前に……あの子はどうするんですか?」

草原の上、自分の長い金髪に絡まって転がるルイルイ。

様子がおかしいことは、スバルスバルにもわかっている。

元々まともとは言えない相手だったが、それは悪辣という意味であって、

こんな幼児退行めいた面が見えていたからではない。

だが――それが、同情する理由になるのか。

多くの選択肢がありながら、常に人道に反する側を選び続けた者たちだ。

スバル

「あいつとは同じ場所にいたけど、仲間ってわけじゃないんだ。むしろ、仲間とは真逆の立場」

スバル「あいつは置いていく。……足手まといどころか、危険要素は連れ歩けない」

背中のレムレムが息を詰めたのが、わかった。

🌑 耳元で

「そんな邪悪な臭いを漂わせて」

それはひどく、冷たく渇いた声だった。

レム

「――やっぱり、虚ろでも、自分を信じて正解だったみたいです」

細い腕が、背負われたままスバルスバルの首に絡みつく。

レム

「耳障りのいいことを言って私を誘い、挙句に女の子は見捨てる。そんな相手に、どうして信じろなんて言われて信じられるんですか」

レム「そんな邪悪な臭いを漂わせて、何も企んでないだなんて白々しいですよ!」

――魔女の残り香。

出会ったばかりの頃、彼女がスバルスバルを危険視した最大の理由。

『記憶』をなくしても、それだけは変わらず感じ取れる。

思い出すのも、気付くのも、あまりに遅すぎた。

意識が、暗闇の淵に落ちていく。

🌲 密林へ

「レム――! 返事してくれ!」

目を覚ますと、草原に投げ出されていた。

レムレムの姿も、ルイルイの姿もない。

スバル

「首は、痛い……ってことは、レムは俺を殺さなかったんだ」

絞め落としはしても、殺しはしなかった。

草の上に、引きずった跡が残っている。

日の傾きから、それほど時間は経っていない。

あの足では、遠くへは逃げられないはずだ。

スバル

「分の悪い賭けなら、何度もやってきてんだよ!」

森は鬱蒼として、熱帯雨林のような気配がある。

準備など何一つない状態で、二人はそこへ入った。

スバル「レム――! どこだ! 頼むから、俺の傍から離れないでくれ!!」

声が涸れても構わないとばかりに、木々の間へ叫び続ける。

🏹 木々の隙間から

太い矢が、一撃

視界の端に、何かが映った。

生い茂った葉の向こう。風に揺れる草場とは違う動き。

スバル

「れ――」

希望を抱いて、そちらへ顔を向けた瞬間だった。

凄まじい速度で迫った衝撃が、胸を真正面から捉えた。

足が浮き、体が後ろへ飛ぶ。背中から幹に激突する。

スバル

「ごはっ……なん、だ……っ!?」

飛びのこうとして、できなかった。

胸を貫いた太い矢が背中を貫通し、大木に縫い付けていたからだ。

溢れ出す血が、一気に喉から吐き出される。

引き抜こうとしても、びくともしない。

森に潜む何者かが、弓と矢でこちらを狙った。

それだけが、わかった。

冷たい『死』が迫るのを感じながら、喉を震わせる。

――最期まで、彼女の名前を呼び続けた。

第七章1『洗礼』終了。